追い詰めているのは誰だ?

http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2008/02/post_4d60.html

なんという恐ろしい世界。
これがコミュニケーションなら私は一生コミュニケーションなんて出来なくていいと思った。本気で。
そんな個人的感想はどうでもいいとして、こちらの記事ではこの「人格崇拝」と「予期的優しさ」がスクールカーストの問題と絡めて取り上げられている。
このスクールカーストの問題は前回の記事の「人間関係」の不条理さや、「努力でなんとかなる」という助言の無意味さを改めて考えさせてくれて、非常に興味深い(このカーストが社会にどのように持ち越されるかのか?と言う問題も含めて)。
で、スクールカースト上位層者が必ずしも人間性やコミュニケーション能力が優れている人ばかりではない事を踏まえて*1、「でもお前にはそういう魅力*2がないのだからせめてコミュニケーション能力を磨いて受入れられるように努力しろ」と「努力しろ側」の方達は言っているのかもしれないが、そこで求められるコミュニケーション能力のレベルがこれだとすると、これはひどい。「素っ裸で東京タワーに登れ」と言われるほうがまだましですね。私の場合は。

ごめんなさい。ちょっと暴走しすぎましたね。
誰も私にそんな事は言ってないし、「努力しろ」という側も「そこまでとは言ってない。最低限気を使えばいい」という思ってるだけかもしれない*3
例えばここのコメント欄の方のように。

で、恋愛もしたことが無いとか、ある程度の年になると「あの人、独身?」と聞かれるのは、そういったヒューマンスキルの低さが問題な場合も多いのですよね。
 これはある程度はいろいろな人に接して、相手も己と同じ人間であることを知り、他者に対する思いやりや気遣いを形式だけでも学ぶことが必要、つう、まあ。ありきたりな処世術かも知れませんが。

2008-01-02

「ありきたりな処世術を身につければいいんだよ」という非常に優しい助言がここでされている訳だが、この「ありきたりな処世術」というのは、何か?
ここで言われているのは「他者に対する思いやりや気遣い」といった事のようだ。
問題はこの「他者に対する思いやりや気遣い」である。言うのは簡単だがちょっと考えてみるとこれは本当に難しい。
相手を思いやっての行動が裏目に出て相手を傷つけてしまう事なんて、普通にある。気遣いもそれが余計なお世話になってしまって、相手を不機嫌にする事だって普通にある。
それを回避するために生まれたのが「予期的優しさ」なのであろう。
上記の引用で語られたヒューマンスキルの低い人というのが、具体例が出ていないので、どういう人を指すのかよく解らないが、例えば、いわゆる非コミュで想定されがちな「無愛想で見た目のレベルもちょっと残念」な人であったとして*4その人が例えば女性に対して無愛想な態度を取った場合、それは「俺なんかが優しく話しかけたりしたら、相手に気持ち悪い思いをさせてしまうのではないか?」という『予期的優しさ』が働いていた結果であるかもしれない。
もちろんただ単に気が利かないという場合もないわけではないが、問題は、そういう「気が利かないだけの人」と『予期的優しさ』の結果「気が利かないだけに見えてしまう人」の見分けが外部から簡単には付けられないという事にある。
それくらい今のコミュニケーションというのは複雑化しているのである。
個人的には、非コミュである事に何らかの問題を抱えている人は、後者の立場にある人達が多いと思っている。そのような人はある意味敏感に他者の気持ちを察してしまったり、空気を察知してしまうが為に、自らコミュニケーションのハードルを高く設定してしまった結果、コミュニケーションを行う事に躊躇いを感じてしまう人達なのではないか? と思っている*5
そういう意味に於いては、非コミュ自身が非コミュへと自分を追い詰めてしまっている可能性もある。

そもそも、本当に気が利かない人本当に空気の読めない人は、非コミュであることに問題は抱かないだろう。だって空気が読めないんだから「『お前は空気が読めない』という空気」にすら気がつかない可能性が高い。

本当に気が利かない人の場合は「努力しろ」と言われた時に「何のこと?」で済むかもしれないが、「気が利かないだけに見えてしまう人」の場合は、その発言はさらに彼らの中のコミュニケーションのハードルを上げ、それによって更に自己評価を低くし、更に問題をこじらせてしまうのではないだろうか?

確かに非コミュ側も変わる必要はあるかもしれない(コミュニケーションを取って行きたいと思うのならば)。
でも彼らがコミュニケーションを取る為に必要な事は、努力ではなく、別の何かだ。


ところで「キャラ的人間関係」って結局の所「人格崇拝」もなければ「個性の尊重」もないですよね。
この辺りのことは、非コミュが必要とする別の何かの問題と絡めていずれまた。


ブクマコメントに返答。
mizukik あなたの場合は少なくとも自分がわがままだと自覚できているわけで、自分を省みない非モテ共よりもずっと魅力的です。的な非非モテさんからの反応が見えた
mizukik様。 そんな非非モテさんはきっと「そんなことないよぉトラップに嵌っています。「アタシってブスだから…」「そんなことないよぉ。○○ちゃんは可愛いよぉ」というアレです。一部女子はそれが許されますが、男子の場合はなぜか「男のくせにウジウジしててキモイ」と言われて(思われるだけではなく)しまうケースが殆どです。

jituzon 非コミュ いろいろな意味で身につまされた。なんだかつらすぎる。
jituzon様。 ごめんなさい。

*1:踏まえてるのかどうかは憶測である。

*2:ブクマコメントにお返ししました。

*3:これも憶測。あんまり憶測が過ぎると幻想のドラゴンを相手に戦う人みたいになっているので要注意ですね。

*4:これは完全なる憶測なので、このあたりは突っ込んでいただいて構わないが「あの人独身?」と言うシチュエーションから表層レベルでの判断だと仮定した。

*5:過剰に他罰的な非コミュも私はこの部類に入ると思っている。彼らの攻撃性は私には自傷行為にしか見えない。もちろんそんな視線は彼らにとっては迷惑でしかないであろうが。

非モテよ、努力せよ! しからんずば…

久し振りの更新です。


前回の記事に書いた(とてつもなく前の事ですが)「『恋愛出来ない、したくない』という人は駄目人間である」という抑圧の事を考えていたら、こんなに時間が経ってしまった。

と言うのは嘘で、本当は考えているうちにどうでもよくなってしまったのである*1
結局の所、私の中には「恋愛したい」という欲求は見つからないし、周りからの抑圧というのも「関係ない人が何か言ってる」くらいで、軽くスルーできてしまうようなものだったのだ。

だからと言って、そうした抑圧は無いのか? というとそうではない。
上記はあくまでも「私の場合は」の話であり、それは私がアセクシャルで「他人にどう思われても別にいいや」と思える図太い神経の持ち主だったからというだけの話で、そうではない人「世の中からの『恋愛できないなんて…』というプレッシャー」を感じてしまう人は、確実に存在する。

しかし「恋愛ができないくらいで差別されるなんて事、あるの?」という疑問もあり、そういう目でみるならば、実際に「恋愛できない人は就職できない」とか、「恋愛できない人は選挙権がない」という差別があるわけではないので『社会的な抑圧』というものは無いように感じる。
となると問題は「恋愛至上主義なり、恋愛資本主義なりを内面化させてしまっている『非モテ』側の自意識」なのだ。という所に落ち着きそうである。
だが、本当にそうだろうか?

実際私もそのように考えてていた。
恋愛なんてプライベートな問題で、「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』なんて本気で言ってる人」の方がどうにかしてるわけだし、そんな人の意見に振り回されてしまう側の自意識や主体性に問題があるんじゃないのか? と。
「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』と本気で言ってる人」という人は現に存在するが、そう言う人に対して「いくらなんでもそれはないだろう」というツッコミは可能だ。
「恋愛したくない」と思っている人にとって、「したくないならしなければいいじゃん」という意見はあり、それでも「でも恋愛してないと周りが…」とグダグダ言ってる人は自分自身がそういう価値観を内面化してるだけじゃないかと*2
一方「恋愛したいけどできない」という人に対しては、前々回の記事で書いたようにダブルバインドの問題もあってなかなか困難ではあるが、それも結局は自意識と主体性でなんとか折り合いを付けていけるんじゃないか? と。

だが、この問題はそんな個人の自意識のレベルではないような気がしてきた。

さっき私は「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』なんて本気で言ってる人」に対して「いくらなんでもそれはないだろう」というツッコミは可能だと書いた。
私は可能だと思っているし、そう言う人に対して平気で言える。「いくらなんでもそれはないだろう。」と。
では、こういう発言だったらどうだろう。
「今までに誰からも愛されなかった人、愛さなかった人は人間性に問題がある」
先の「恋愛ができない人は…」に比べて正当性があるように思えないだろうか?
「酷い言い方だけど、まあそうかもしれないな…」と思うのではないだろうか?
私自身、上記のような発言に対して「いくらなんでもそれはないだろう」と即座にツッコミを入れる事はできない。「確かにそれはそうかも…」と思ってしまう。
では、それは間違ってはいないという事だろうか?

その前に、そもそもそんな人「今までに誰からも愛されなかった、愛さなかった人」というのは存在するのだろうか? という事を考えてみたい。
「今までに誰からも愛されなかった人なんて居るの?」
居ないとは言い切れない。
「他人からはともかく、親だっているでしょうに」という意見もあろうが、親が居ない人だって居る。居たとしても親から愛情を向けられなかった人だって居る。親は愛情を注いでいたが、本人はそれが愛情だと感じなかったケースだってある。
「愛されたかどうか?」というのは「本人が愛されたと感じたか」というというのが問題であって、「愛された事がない」と本人が思い込んでいれば、その人は「愛された事がない人」になってしまうのである。
という訳で「愛された事がない」人は存在すると言える。

では、「愛した事がない人」は存在するのか? これも同じ事が言えると思う。
本人が「これは愛だ」と思って相手に感情を向けたとしても、それが「愛」とは受け止められないケースもあるし、時には暴力として捉えられかねない事もある。そもそも「愛とは何か?」という事が解らない人だっているかもしれない。
と言う訳で「愛した事がない」という人も存在すると言える。

こう考えると、先の「今までに誰からも愛されなかった人、愛さなかった人は人間性に問題がある」というのは、もっと正当性を帯びてこないだろうか?
「他者からの愛を感じる能力がない」という事に於いて。
そして「他者への愛を表現する能力がない」という事に於いて。

こう考えると、うっかりと頷いてしまうのだ。
「そう、そういう人って人間性に問題があるかもね」と*3

だがしかし、問題のない人間性ってどういう人間性なのだろう?

「愛される人間性」と言う事か? 愛されている人は人間性に問題がないのか?
人間性に問題がないから愛されているのだろうか?
では、いわゆる反社会的行動をしている人でも、恋人が居る人は人間性に問題はないということか? 人間性に問題があっても恋人がいればOK? 
「愛する事ができる人」は人間性に問題はないのか? では息子可愛さのあまりお嫁さんを虐めてしまうお姑さん*4人間性に問題がないのか?
恋人を愛するあまり束縛しすぎてしまう人は問題はないのか? それを愛とは言わない? では「愛」って一体何?

愛する事、愛される事に本当に人間性は関係あるのだろうか?
「恋愛ができない人は人間性に問題がある」
「誰からも愛されなかった、愛さなかった人は人間性に問題がある」という『人間性』はどのようなものを示すのだろう。
それは何処から観た、誰から観た人間性なのだろう。

極論を言ってしまえば、恋愛に限った事でなく、人間関係に於いて人間性なんて割とどうでも良い話なのである。
問題はその関係者においてどのような関係を築けるか? にあるわけだから。
こうなると、コミュニケーション能力の問題*5になってくると思う。

「でもコミュニケーション能力が低いのって問題なんじゃないの?」
「コミュニケーション能力を付けたほうが良いんじゃないの?」という意見も当然出て来るであろう。
じゃあ、コミュニケーション能力って一体何?

私は積極的に非コミュだが、いわゆるコミュニケーション弱者ではない。
初対面の人とも平気で話せるし、大勢の前で話すのも平気*6
アセクシャルだけど男性恐怖症でも性嫌悪でもないので、異性とお話する事だって平気。下ネタだって別に嫌悪感はないし、性的欲求ギラギラの視線(どんな視線だ)を向けられたって構わない。「セックスしよう」と言われれば(言われないけど)「嫌です」と相手の気持ちもおかまいなしに言えばいいだけだ。過度に攻撃的な非モテより、人間性としては私の方が問題あるかもしれない。というかある。
こんな私だが、有り難い事に友人はいる。
アセクシャルを自覚する前は、付き合った事もある。
別に何も努力した訳ではない。それどころか、思いやり深くも無かったし、常に人の為に何かを考えるなんて優しさも持ってなかった。我が侭だし、自分に甘く他人に厳しく、気を使うなんてまっぴらなので、積極的非コミュでいるわけだけど、幸運にも私を受入れてくれる人が居たというだけだ。
私は恵まれていると思う。 もちろん、離れて行った人だって居る。
カミングアウトしたとたんに連絡が来なくなった男友達とか。
別に彼らを恨むつもりはない。 彼らにとって私はそれだけの人間だった、というだけの事だから。
そして、このように考えられる図太いメンタリティが持てた事も、私は恵まれてると思っている。これも努力して身につけたものではない。 たまたまそうしたメンタリティを身につけ易い環境で育っただけの事だ。
私がコミュニケーション能力があるか無いかは読者の判断に任せるとして、なんの努力をしなくても一応のコミュニケーションって取れてるのである。理不尽な話ではあるが。

私の個人的な考えを言えば、人間関係なんて努力だけでなんとかなるとか、そんな単純なものではない。もっと不条理で複雑で厄介なものだ。

勉強や運動なら努力で上達する事も可能だが、それにだって的確な指導やトレーニングというものが必要で、闇雲に努力したって報われないと言う事もある。体力や能力の限界だってある。
それはいたって仕方ない事で、世間的にも「触れてはいけない」というコンセンサスは漂っているようにも思える*7

何故、コミュニケーションの問題の場合殊更に「努力しろ」とか「努力が足りない」とか「努力もしないでグダグダ言うな」な空気が蔓延してしまうのだろう。 非常に不思議だ。

恋愛できない事が原因で「女なんか糞だ!」と言い出す人がいるからだろうか*8
私の個人的な感覚では、そこまでこじらせてしまった人はレアケースに見えるのだが、多数派なんだろうか?
「努力しろ、努力したくなければグダグダ言うな」という空気はそう言う人をさらにこじらせ、そうではない人達を追い詰めてしまうように思える。

個人的にはコミュニケーション能力の問題は「社会問題」として扱っても良いのではないか? と思いつつもあるけれど、個人レベルでできる事からで言えば「努力しろ、それが嫌なら黙って死ね」的な空気が蔓延するのは押さえたい。
出来る事なら、今の面倒でハードルの高いコミュニケーションのあり方を、少しでも緩いものに変えて行く(もしくはそういう選択も有りな方向に)変えてゆくためにはどうしたら良いか? を考えてみたいと思ってはいる。

*1:考えているうち「非モテ」問題も下火になっていったような感があって、それも「どうでもいいや」感を加速させたような

*2:だいたい抑圧というものは「そうであると思い込まされている」ところから来る物であり、「別にそうであると思い込まなければ良いのだ」と気がつけば、抑圧からは(ある程度)解放されるのではないか?と個人的には思っている。

*3:「アセクの私は性的対象としては愛してないけど、家族とか友達とかは愛してるし愛されてるもんね。」等と言う卑怯な言い訳をしつつ

*4:発言小町のネタのようにベタだが

*5:そしてコミュニケーション能力がないと就職に於いて不利という事は事実としてある。選挙権は剥奪されないけど

*6:小さな派遣会社でビジネスマナーのトレーナーや、イベントの司会なんかもしてたから。

*7:学歴問題やワープア問題には自己責任論もあったりはするが、あまり表立って「いわゆる世間話的に」そこを突っ込まれる事はあまりない。まあそれもある種の差別ではあるのだが

*8:2ちゃんねる男女板にいるような人とか。個人的には言いたいなら言わしておけば?という感じ。適当にガス抜きさせておいた方がかえって安全かもしれません

前回の補足


コメント欄に書くにはあまりにも長くなってしまうのと、「ナツ氏に個人的に物申す」という事でもないので、ここに補足の意味も込めて改めて書く事にしました。


前回の記事で私は「男性への抑圧」に関して書き、女性への抑圧には言及しなかったが(注釈を付けたものの)、これは女性への抑圧はないとか、どうでも良いとか思っている訳ではなく、女性への抑圧というのは、これまでにも様々な人が書いたり訴えたりしてきて、現代ではわりと自明の事になりつつある事と、それに対して男性への抑圧があまりクローズアップされていなかった為である。
つまり、加害者であり、抑圧する側として見做されている男性も、被害者であり抑圧される側である事を言いたかった訳だ。


で、私個人の感覚としては男性の方が「抑圧がキツイ」と思っているのだが*1これはあくまでも私の個人的な見解であって、本質的にはどちらがどうであるというのは、不毛な議論である。

もちろん、私も「どちらが抑圧されているか合戦」をする気はないが、「男性がダブルバインド」の状況に追い詰められている事に関しては、過酷な状況であると思っているのでちょっと強調しておきたかった。
この抑圧は、多くの女性が感じる「女はこうあるべき」と言った、行動を制限する抑圧*2とは、また違った意味を含むものだ。
それは、被害者を生み出してしまうこと、つまり加害者の立場に追い込まれるという事に於いて。


自分の性の在り方そのものが、「暴力であり、罪である」と思うが故に、恋愛に対して抵抗を持ってしまう事は、「モテる、モテない」でくくってしまうには、あまりにも過酷なのではないか?と思う。


しかし、ダブルバインドの状況があるとは言え、「恋愛を楽しむ男性」はいる訳で、非モテの問題がそこに集約される訳ではないと思う。


問題は、「『恋愛できない、したくない』という人は駄目人間である」という抑圧である。
一体、それは何処から来るのか? 一体誰が抑圧するのか? 真の敵(というと語弊があるかもしれないが)は一体何か? というのは、また改めて書く事にする。


最後に個人的な話ではあるが、私がこの「男性が『自分の性の在り方そのものが暴力であり罪である』と感じている事」に対して拘っているのは、もしかしたら、そこに自分を重ねてしまっているからなのかもしれない。
私はアセクシャルであるので、誰ともどんな人とも恋愛関係(及び性的な関係)を結ぶ事はできない。
言い換えれば、どんな人であっても恋愛対象(性的な対象)として受け入れられないという事である。
そんな私という存在を、恋愛対象(性的な対象)として受け入れられる事を「自己を承認される事」と認識している人から見たら(永久に承認されないという事に於いて)その人を拒絶し、否定する存在として、つまり傷つける側「加害者」とみられても仕方がないとも言える。
つまり、私のセクシャリティは、常に他者を拒絶し、否定するという「ある種の暴力」を内包している訳だ。私が、アセクシャルであるという事に関して負い目とか、引け目を感じるとしたらその一点に関してである。
まあ、ダブルバインドに苦しんでいる男性から見たら、全然見当違いの「なんだ?このバカは?」という話かもしれないが、ちょっと思ったので。

*1:何故か?というのは前回の女性誌のくだりと、http://d.hatena.ne.jp/Paris713/20061215/p1

*2:もちろん女性への抑圧はこれだけではないだろうし、だからどうでも良いという話ではない

イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)


バラエティー番組などでグラビアアイドルとかが、男性お笑い芸人に「キモイ」と言う。 そう珍しくもない光景である。私も何度か目にした。
一方イケメンタレントが、女性お笑い芸人に「キモイ(ブスとかでもいいけど)」とか言っているシーンはあまり見ない。少なくとも私は見た事が無い。イケメンタレントが女お笑い芸人に迫られても、ちょっと困った顔をしつつ優しく接する所しか見た事がない。
この差は一体なんだろう? 


「女はいつも女という種として(性的な存在)として見做される」この様な言説はブログを読んだり、書いたりしている人なら誰しも(嫌という程)目にしてきたであろう。そしてこれは、おおむね事実である。*1


女として性的な視線に曝されるのは、なにも「若く美しい女」だけではない。
世間には様々な「性的な視線」が存在する。
例えば「人妻フェチ」や「熟女専」「デブ専」 これらはそれを専門とする風俗店が存在する程度には、市民権が得られている。「熟女」も「デブ」もある意味商品足り得る場面はあるのだ。多少マニアックな感はあるが、世の中には「ブス専」だって存在する。「ブスのほうがそそる」「スタイル良ければブスでもかまわない」という人だって、結構いるのである。
実際に、全ての女がそうした目線に曝されるのか? という事はおいといて、「そうした目線も世の中にはある」という認識はそう間違ったものではない。(非モテ女の中には、そうした目線を恐れている人もいたりする)*2
世の中は、「女であれば、とりあえず性的な存在として見做す」のである。*3



恋愛資本主義的な側面から見れば、「女は商品」でもあるが、同時に「お客様」でもある。女は欲望されるが故に、または欲望されるために、自分を磨かなければならない。恋愛市場は、立派な市場なのである。市場は広い方が良いので、客層を広げる事も必要。従って従来の恋愛の対象であるいわゆる「若く美しい女」だけではなく、様々なカテゴリーの女も「お客様」に取り入れる。


女性ファッション誌などを見ると解りやすい。そこには「読者=お客様」という素敵なおもてなしワールドが広がっている。 「モテメイク」や「愛されファッション」等の特集が組まれたとしても、あくまで決定的なダメ出しはなく、誰しもに可能性があるかのごとく書かれていたりする。「ステキな貴女がもっとステキになるには…」みたいな感じの文章で。 最近ではちょっとぽっちゃり目の女性の事を「モテプヨ」と称してみたり、「ラブハンドル」(ローライズを履いた時、ちょっとはみ出るお肉の事)なる概念を作り出したりしている。「無理にダイエットなんかしなくてもステキな貴女」である。
こうした「貴女もモテる」というメッセージはそこかしこに溢れている。
「モテ」の概念も一元的ではない。多様化する女性の価値観に合わせて、女性誌が描く「イイ女」の概念は様々だ。「カワイイ」とか「キレイ」だけではなく「女から見てカッコいい女」「輝いてる女」何でもありである。
「本当にイイ女は男に媚びたりなんかしない」とか提唱されたりもして、従来の男が求める女「若く美しく従順な女」でなくても、充分に「お客様」扱いされているのである。 女性ファッション誌のメッセージは「貴女もお客様ですよ。お客様の為に私達はこんな物を用意しましたよ(だから買ってね)」という恋愛市場からのメッセージである。 お客様であるが故に、女性は大切に扱われている。


TVでも、ほぼ同じ事が言える。 主婦向けのワイドショーは言うに及ばず、ドラマや、バラエティ番組等でも、「女性の目線」というのは尊重されている様に思える。 「ギルガメッシュないと」のような「男性目線オンリー」の番組はもう見当たらない感じ。 飾り物のようにニコニコしていただけの女性アシスタントは減り、どんどん前にでるタイプのバラエティ用アイドルが増え、ニュースのメインキャスターは女性だったり、まさに「女性万歳!VIVA女性!」と言った印象を与えている。 
メディアの中で、女性はあくまでも「お客様」なのである。だからイケメンタレントは、それがお笑い芸人であっても女性に「キモイ」とか「ブス」とか言わない。女性にとても優しいのである。 見ているお客様の機嫌を損ねない様に。



一方の男性はどうであろうか?
恋愛資本主義的価値観で言えば、メイクやファッションにお金をかける女性だけではなく、男性だって立派な「お客様」である。食事を奢る、お酒を奢る、プレゼントする。 最近は男性だってお洒落でなくてはならない。 服も要る、小物もいる。 恋愛にはお金がかかるのである。 それを払う男性は「お客様」であるはずだ。だが、何故かあまり「お客様」扱いされていない様子である。


TVの中で、グラビアアイドルは平気でお笑い芸人に「キモイ」なんて言ったりする。 お笑い芸人とは言え男性である。 グラビアアイドルにとっては「お客様」でもあるのに。*4
男性ファッション誌では「モテ」特集があったとしても、なんだか「経験豊富な兄貴が教えてあげるよ」的な上から目線である。 「プレゼントするなら、コレを買え」「食事に連れて行くなら、飲みに連れて行くならこんな店」「こうしろ、ああしろ」「こんな男は嫌われる」etc 
ここでも男性はあまり「お客様」扱いは受けていない。それどころか、女性をおもてなしする側として扱われている印象である。
つまり、女性ファッション誌が描く「イイ女」は必ずしも男性にとって都合の良い「イイ女」ではないのに対して、男性ファッション誌が描く「イイ男」というのは、女性にとって都合の良い「イイ男」である場合が多い。女性はそこでも「お客様」である。


実際の男女の置かれ方がどうであれ、メディアの中では「おもてなしとしての女性上位」が主流である。*5
これはあくまでも、メディアの中での状況であり、メディアからの情報にすぎない。 言ってみれば「たかがメディア」である。が、そうは言っても、人はメディアの情報から完全に自由ではいられない。「そんなものはクダラナイ」とそれを切り捨てる人にしても、「クダラナイ」と認識できる程度には、それは入ってきているからである。 その人の周りの人間が、それをダイレクトに受け取って素直に信じ込んでいる(ように見える)状況だってある。「されどメディア」なのだ。


さて、そんなメディアが流すメッセージを要約するとこうだ(いささか乱暴であるが)
「男は女の為に金を使い、労力を使い、気も使って、自分の見た目も磨きましょう。じゃないとモテませんよ」
つまり男が、女を獲得する為には、能動的にならなければいけませんよ、という事である。これには、女が「欲望される性」であるのと対象に男が「欲望する性」として位置付けられているという前提によるものだろう。
もちろんコレは、「モテ」という局面に限った話ではある。「別にモテなくてもいいよ」という人には関係ないように思える。女を必要としなければ、別に能動的に動いて獲得する必要もない。
ところが、メディアはそういう人達もほっといてはくれない。
こんな話がメディアでなされたりしてるのは、誰もが知っているだろう。
「結婚しない女」と「結婚できない男」に対比される、 「男がダメだから女は結婚しないのだ」的な言説*6。 「結婚しない女」がいわゆるフェミニズム的な価値観で擁護される傾向にあるにも関わらず、男性には擁護はない。
本人がしたいと思っているかどうかの主体性は問われる事なく、一方的に「出来ない」としてくくられる。 そして、「ダメだから出来ないのだ」とこうくる訳である。それには、「男は欲望する性である」と能動的な立場として位置付けラレテ居る事と無関係ではないであろう。 であるから「欲望して当然、しないんじゃなくて出来ないんでしょ?」と言う訳だ。 本人がしたかろうが、したくなかろうが、おかまいなしである。


メディアに共有されたフェミニズム的価値観により、女性側の「欲望される側」の押しつけは迷惑だ、という主張はある程度理解を持って受入れられるようになった。しかし、男性側からの「欲望する側」の押しつけは迷惑、という主張は受入れられているようには見えない。 メディア側は男性には割と平気でそれを押し付けている。押し付けておきながら、一方で押さえ付けもする。 「欲望する事は、暴力である」というような言説はメディアの中には普通に見られたりもするのである。 
男は、欲望する事を強制され、しかもその欲望は暴力を含んでいる、と言われる。ダブルバインドの状況である。 「問題は欲望の向け方や、状況にあるのだ」と言われたところで、それが万人に通用する訳ではない。どんなに気を付けても、それを相手が「暴力」だと感じたら、おしまいである*7。 だからと言って、慎重に行動すれば(もしくは一切行動しないでいれば)「女が怖いのか? 情けない」と言われる。
メディアにとって、女性がお客様であるが故に、女性はいつも「被害者」であり、「善」である。 そして男性は(いつもではないが)「加害者」であり「悪」なのだ。



こうしたメディア状況が、男性に「抑圧」と感じられる側面があるのも、不思議ではないだろう。 「追い詰められている」と感じる人が居ても、無理からぬ事ではないか? と思う。


非モテについて、「それをとりまく状況」から考えた時、私が考えたのはこの事だ。
「女性は抑圧されている」よく聞く言説だけど、本当にそうだろうか? ないとは言わないけど、それは女性だけではないでしょう?って。 男性にだってあるでしょう?って*8
私には、「男性にも抑圧があって、そして男性には逃げ場が少ない」と思えるのである。現在のメディアの状況や情報の、男と女、恋愛、様々なものの扱われ方は、女性よりも男性により強い抑圧を与えるものではないのか?


メディア側が与える情報から、抑圧を感じたり、怖れをなしたり、「女ってどうよ?」って思う事を「被害妄想」だとか「ミソジニー」だとか言う人もいるが、私はそうは思わない。 というより、そうなってしまっても不思議ではない状況が彼らの周りにある、と思う。
確かに、メディアの情報はただの情報でしかない。 「そんなものに脅かされるなんて」という見方だってある。 「自分の人生なんだから、自分の意志で、主体性を持って、自分の選択で生きていけば良いじゃないか」 そういう見方は確かに正しいし、実際私自身もそうである。 セクシャルマイノリティであり、それに沿った生き方を選択している。 でも、それは私がたまたまそう出来た。 というだけの事である。 そして、「女」だったという事も無関係ではない。 現代の日本では女は比較的自由な立場だから。
でも、男性にとって現代はかなり不自由に感じるものだろうと思う。
「男は社会的な動物である」それであるが故に、男性は「社会がどう思おうがどうでも良い」とは簡単には言えなくなっているのだから。
でも、自分を完全に社会に合わせて生きていくのも、ツライのだ。


じゃあどうすればいいの? って言うと、はやり、「自分の主体性と、社会のあり方との間に折り合いを付ける」って事になるんだけど、その辺りの「社会からの距離の取り方」にしろ、「主体性の持ち方」にしろ、男性が参考に出来そうな良いサンプルが少ないのが今の現状だ。


その現状を無視して、非モテに「変われ」というのは、ある意味無責任でもある。

*1:「それが嫌なのだ。問題なのだ。」という話は今回はほったらかしである。申し訳ない

*2:ナンシー関が「デブ専の男性からファンレターを受け取り、恐怖した」というエピソードは、こうした状況を解りやすく示している。

*3:ある意味「女は誰からも性的に欲望されうる存在だ」という事である。非モテというのが「モテない」つまり「誰からも性的な存在として欲望されない」という事だけを意味するのであれば(実際はそうではないから、この問題は厄介なのだが)「欲望されない女などいない」つまり「非モテ女」なんて存在しない、と乱暴にくくってしまう事も可能だ。だが「存在しない事になっている」という事は大きな問題である

*4:TVなどの制作者側は主に男性である訳で、男性が男性を貶めるというのは、いわゆる自虐という芸の範疇に入るのかもしれないが、それにしても…という感がある

*5:そんなメディアのお客様扱いに対して、結局は女をバカにしてる等の、いわゆるフェミニズム「的」論点で語る事も可能だが、ここではしない

*6:「結婚できない女」というのをメディアがあまり扱わない事にもいろいろな問題が含まれている

*7:セクハラを考えると解りやすいかもしれない。ここでちょっと書いてみたhttp://d.hatena.ne.jp/Paris713/20061212/p1

*8:だから女性の非モテの問題はたいした事ない。という話ではない

奢る奢らないの個人的見解


私は、「男性だから女性に奢るべきだ」とは思っていない。基本的に本人の好きにすれば良いと思っている。自分の中でルールを決めればいい話だと思う。
例えば、「自分が誘ったから奢る」「奢りたいと思ったから奢る」「奢るけど『奢られて当然』と思っているような奴には2度と奢らない」「何があっても絶対割り勘」
それで、相手とのコンセンサスが取れなかったら、それは自分と相手の価値観が違うと言う事である。
違ったらどうするか?  その時も自分のしたいようにすれば良いと思う。
相手の価値観に合わせたいと思えば合わせればいいし、そうしたくないなら、しなければいいのではないか?


それに、ちょっと疑問に思ったのだが、この掲示板で尊重されている「女子力の弱い女性」であるが、この人達の「主体性」というのが問題にされていないのは、何故か? それは尊重なのか? 子供扱いか?
女子力の弱い女性も、「自分で自分の食事代くらい出します」って言うくらい自立した女性であれば、「奢られてしまった場合にプレッシャーを感じなくて済む相手か否か」くらいの事は自分で判断出来るだろうし(嫌なら誘いに乗らなければよい)、プレッシャーを感じてしまって後から悩んでしまうくらいであれば、押し付けてでも払ってしまえば良いのである。



あと、多数対多数の食事会等の代金で男女に差があるのは、「普通に考えて男性が食べたり飲んだりする量に比べて、女性の方が少ないから」だと思う。そういう慣例にまで「男女の権力問題」を感じてしまったり、「実際の不公平性」(「あいつの方がたくさん食べたり飲んだりしてるのに」)を感じてしまう人だったら、もう、「各人が自分の食べる分量だけを持ち寄る」みたいな集まりに行くしかないかもしれないね。
そういう感覚の人にとっては、確かに世の中は辛いものかもしれない…

非モテに関する身も蓋も無い話


日記の中でカムアウトしているが、私はアセクシャル(Aセクシャル)である。(ちなみに私は恋愛感情なし、性的欲求なしのアセクである)
従って、恋愛市場からは遠い所(降りた所)にいる。私がアセクだという事を知らない第三者(知っている人だってそう思っているかもしれないが)から見たら「非モテ」である。しかも、高齢の。 他人から見たらまさしく「そんなんで、あんたこの先どうするの?」である。
大きなお世話である。「私の人生だ。ほっとけ」ってなもんだ。


で、「非モテ」問題は「大きなお世話だ」と言えない人、言ってはいても心からそう思えない人の問題なのだろうと思う。


恋愛至上主義の恋愛市場の世の中の、「人は恋愛したり、結婚したりしてあたりまえ。出来ない奴は屑」というプレッシャーが存在する。 「何事も世間様の思い通りに、期待通りに振る舞わなければ…」と思ってしまう人達にとってはツライものであろう。だからと言って、恋愛市場に乗っかってしまうのもツライ。
そこでどうするか? 脱オタ*1して頑張って恋愛資本主義に乗り込む人、恋愛はバカのする事と割り切ってしまう人、恋愛資本主義をぶち壊すべく革命を企てる人、等々人それぞれ様々な対処法を取っているのは、いまさらである。


でも、非モテは自意識の問題(つまり第三者がその人を非モテと認識するかどうかというより、自分で自分をどう認識するかという問題)なので、非モテという認識から脱却しない限り、どんな対処法を取ろうと根本的な解決は無いのである。
だったら、自分で非モテだって思わなきゃいいじゃん、というのはあまりにも身も蓋もない話だ。(まあ、本当はそれで済んでしまう話でもあるけど)
それに、非モテは自分で勝手に思っているというより、そう思わされているというケースが非常に多い。何によって? 世間からの圧力によって。


恋愛が出来ないという人のみならず、恋愛をしたくない、興味がない、という人にまで、「それは結局非モテなのだ」と思わされてしまうくらい強い圧力を非モテは感じている。


でも、ここで更に身も蓋も無い事をいうと、世間ではその人がモテるかモテないかなんて、そんなに重要な問題では無かったりする。よく考えれば、誰だってそんな事わかるだろう。 モテるかモテないかで、その人の全てが判断されるなんて事は、本当はないのだから。 世の中は、恋愛を軸に回っている訳ではないのだから。会社に入ってどれだけモテようとも、仕事が全然で出来なきゃ駄目社員なのである。(仕事が出来る人がモテるというのとは、別問題) 会社はそもそもは恋愛感情などというプライベートな問題を持ち込む場ではないから。
もちろん、世の中は(というか社会生活は)会社だけで出来ている訳ではないので、プライベートな場というのも出てくる。*2


では、そのプライベートな場って「モテるかモテないか」といういわゆる恋愛感情や性的な事柄だけで構成されているのか?
そんな事はないと思う。あたりまえだ。同性間(性嗜好対象にならない相手)との関係もあるわけだから。*3
そうすると、問題は非モテは異性との関係においてという事になる訳だが、プライベートにおける異性の関係も、「恋愛感情や性的な事」だけで構成されている訳ではないと思う。 もちろん「それ」しかないっていう人だっているかもしれないが、それが世間の大部分なのだろうか?  私にはそうは思えない。(それはオマエがアセクのババァだからだろって見方もあるかもしれないが)
大体男女が2人で歩いているからと言って、その2人が恋愛関係にあるとは限らないのである。 だとすると「モテるかモテないか」というのは、恋愛感情や性的な事にからんだ局面に於いて立ち上がってくる問題だとも言える。



という訳で突き詰めると
非モテ問題は、社会生活の中のプライベートにおける場の異性間での一部の局面での関係性における問題」という、ある限られた場での関係の問題に過ぎないと捉える事も可能だ。「そんな事どうでもいいよ」と言える人には本当にどうでもいい問題であったりもする。(だからと言って全ての人にそう思えって話じゃない)
でも、そう言えない人にとっては、その限られた場での問題が、「世間からの圧力」として大きな問題に感じられている。
すなわち、「世間は、その『限られた場での関係に過ぎないような恋愛の問題』をそれほどまでに重要視している」とも取れるが、果たしてそうだろうか?



で、こちらの記事と、
2006-11-27
コメント欄から発生した掲示板を見て思ったのだが、そうした「恋愛の問題」を重要視しているのは、世間というより、非モテ(モテるかモテないかを気にする人)側なのではないだろうか?


ここの掲示板では主に「非モテは女性に奢るべきか否か?」という議論が交わされている。
前提は「相手が女性だからという事で慣例(男性が女性に奢るという)に従って奢るべきかどうか」なのだが(モテたい非モテは…とかいろいろ想定されているが)
割り勘希望の女性(女子力が弱い女性)に対する配慮の面からも語られている。
で、慣例に従うかどうかという話は(それがこの掲示板での議論だが)ちょっと脇に置いて、その背景にある価値観(というか考え方)について少々思った事がある。
*4




そもそも「奢る/奢られる」という関係に全て恋愛(モテ非モテ)が絡んで来るのだろうか?
それが、男女1対1の間だとしても。
「誘ったらから(相手が貴重な時間を割いてくれたから)」とか「楽しかったから」とか「相手に喜んでもらいたいから」とか言う感情は、恋愛を前にした局面にしか出て来ないのだろうか?
「食事を奢ってもらう事が相手を喜ばすとは限らない」という相手の気持ちを尊重する態度は有りかもしれないが、素直な意思表示としてそうしたいと思う気持ちは無いのだろうか?
奢るという事は本当に「「私は貴方に見返りを期待していますよ」というサインになってしまう」のか?


奢る男性側は、「見返りを期待するというサイン」と受け止められる事にプレッシャーを感じ、奢られる女性側は「見返りをよこせ」というプレッシャーを受けるという事のようだが、ほんとうに「奢る/奢られる」という関係ってそういうサインしか発しないのだろうか?


そのプレッシャーを感じる側が、過剰にそういう意味付けをして、過剰にプレッシャーを感じてしまっているという側面はないのだろうか?
非モテによる、その過剰な意味付けが、非モテという問題を殊更にキツいものにしてしまっているという事はないだろうか?



私から見ると、非モテ側の人達、恋愛至上主義に違和感を感じる人達のほうが、逆に恋愛至上主義的な感覚を持ってたりするように思うのである。
「奢ったんだからヤラセてよ」という感覚が世間の主流だと信じている人は、異性間の「奢る/奢られる」の関係に恋愛のパワーゲームしか見出せない恋愛資本主義に踊らされている人と同じ価値観に縛られているのではないか?


女子力の弱い人も同じである。
「奢る/奢られる」の関係に男女の権力関係や「金で買われる」のような被害者的なサインしか読み取れない(もしくはそれを強く感じてしまう)という事は、やはり、そのような価値観に強く縛られているのと、同じ事ではないのか?
「現に、『奢ったんだからヤラせろ』という男性がいるからだ」という事なのだとしても、別にそう思っていない人も結構いるのに、「ヤラせろ派」の価値観に重きを置いてしまっているのだから。
それに、「奢ったんだからヤラせてよ」という男性が居る=その考えが主流 って、痴漢する男が居る=男は痴漢みたいで、ちょっと失礼な見方にも感じるんだけど。



現に私はアセクシャルで、アセクシャルだとカミングアウトした後も普通に奢ってくれたりする男友達(すなわち見返りを期待しない人)も結構居たりするし、奢りたいから奢る人、普通に奢りとは贈与であると考えてる人も、結構居たりする。
「それはそういう人が居るってだけの話でしょ?」という見方もあるけど、逆に「「奢るからヤらせて」っていう人も結構いるってだけの話でしょ?」という見方も出来るのである。


本当に個人的な見解だけど、非モテも女子力の弱い人も、自分で自分が辛くなってしまう価値観に重きを置いて、その上で自己を規定しようとしているように見えてしまう。
非モテは自意識の問題だから、そうなってしまうのも仕方の無い事かもしれないけど、だからこそ「認識のありようでなんとかなる部分もある」とも言えたりするのではないか? と思う。
まあ、その認識の仕方自体が、自意識と絡んでるから厄介なんだろうけどね。

*1:オタ=非モテって訳ではないと思うが、なんかそうう文脈で使われてるね

*2:もちろん、非モテの問題はそのプライベートな場においての話が前提なのだろうけど

*3:もちろんその同性(だけじゃないかもだけど)からの「モテないなんて、プッ(w」という圧力の問題もあって、こちらの方が本当は問題なのかもしれないが、それは次回

*4:自分がどうしたいのか?という主体的な視点ではなく、どうすべきかという視点で語られているのも興味深い

フェミニズムって本当に必要?

前回の続きである。

前回、私はこのように書いた。

私個人の考えでは、フェミニズムはもう社会的な問題ではなく、
こうした「個々人の折り合いの付け方」の問題になっているのではないか? と思う。
直接的な制度上の差別(法的な差別)が無くなった以上、
もう、フェミニズムという運動はその役割を終えているのではないか?


「何て馬鹿な事を言っているの?差別はたくさんあるのに」と思うかもしれない。
実際馬鹿だからかもしれないが、私にはその「差別がある」という状態がピン来ないのである。
何故なら、私は未だかつて一度も「女であるということだけ」で制度上の差別も、
法的な差別も受けた事はないから。
例えば、「女が勉強するなんて、けしからん!」と逮捕されたり、罰金を支払わされたりという事は一切なかった。


フェミニストの方々は言うかもしれない。
「そういう事を言っているのではない。でも、実際に『女は家庭に入ればいいから、教育は必要ない』と言われたりとか、仕事で活躍しようとしても『女のくせに』と言われたりする事があるんです。」


でも、それって「そういう人がその女性の周りにいる」というだけの話でしょう?
その人がそのような状況に置かれているという事にすぎない。
「女の子には教育は必要ない」という両親に育てられたという事は、「大学? 家にはそんな余裕はないから就職しな」と親に言われた男の子と、何らかわりはないと思うのだけど、違うのだろうか?
このように理不尽な(というか自分の望み通りにならない)状況に置かれている人はたくさん存在する。存在するからどうでも良いという事ではなく、それは特に女性に限った事ではないでしょう? という事である。
男性だからと言って「男だという理由だけ」で理不尽な目に遭わずに、自己実現できる訳ではないである。


「家には大学に行かせる余裕はない」と言われた男の子はどうするか?
親を説得したり奨学金を受けたりして進学するにしろ、あるいは進学を諦めるにしろ、彼は基本的に自分の責任に於いて進むべき道を選択し、歩んでいかなければならない。
それが最終的に彼にとって満足のいく結果になるとは限らない。努力だけではどうしようもない事だって、人生の中には普通にあるからだ。
それは、男女どちらにも言える事だと思うが、「女性だけ」を社会的にそういう不遇から救い上げようとするのは、いくらフェミニズムが女性の為の運動とは言え、如何なものか? と思うのである。


女性の中にだって、周囲の反対を押し切って学問を極めたり、事業を立ち上げたりする人だって居る訳だし。
と言うと「そういう女性が居るからと言って、全ての女性がそう出来る訳じゃない」と返されそうだが、それは「オリンピックに出たい人が居るからと言って、全ての人が出られる訳じゃない」っていうのと、どう違うのだろう。(人生とオリンピックは違う? でもオリンピックに人生を懸けている人はいるよね)


ところで、ちょっと疑問に思ったのだが、現代の日本で、成人するまでの間に、
「女は男より劣っている」とか「女は家庭に入るべき」とか「女は仕事をするな」と言う様な価値観しか与えられなかったという女性は存在するのだろうか?
家庭からも、周りの人からも、学校からも、メディアからも、その様な「女は男より劣っていて、家庭に入って子供産む事しか価値がない」という価値観だけを刷り込まれて育った人って居るのだろうか?
家庭からだけくらいならまだあり得るかもしれないが、その女性の周囲の殆どが、その女性を抑圧する価値観のみで構成されている状況って、ちょっと考えられない。(家庭教育の影響は絶大? だったら世の中の殆どの親に子育ての苦労なんて無い事になるね)



何が言いたいのかと言うと、フェミニストの方々の言う「女性に対する抑圧、差別」って一体どの程度の事なの?という事。


なんだか揚げ足取りのようで大変申し訳ないのだが、ちょうど良い例なので、引用させていただく。ヒギリ氏のご意見がどうこうというより、この言説を目にすることが非常に多いので。
以下「MELANCHOLIDEA -メランコリデア 誤解ですよという主張」より
http://melancholidea.seesaa.net/article/28045819.html

制度的な差別はない。
しかし現状に男女差はある。
たとえば国会議員の数。たとえば賃金の男女差。たとえば社長の数。

なぜか?

差があるならば、そこには必ずなんらかの理由があるんです。
たとえば女は無能だからとか。
でも多分そうじゃないし、
少なくとも無能説を証明できるほど男女は同じ条件におかれていない。
※「男性と同じ条件下におかれた女性がいる」ことと
 「すべての男女が同じ条件下におかれている」ことは違います。


*中略


つまり最初から期待されることが違っている。
「コイツラどうせダメだし」と言われ続け、
ダメであることを期待され教育されて育つ人たちと
「君たちは金の卵さ!」と言われ続け、
有能であることを期待され教育されて育つ人たちでは、
結果もおのずと違うわけです。

“ダメであることを期待される”とは
期待に沿って無能であれば「やっぱダメだな」と言われ
期待に反して有能であれば「ダメ人間のくせに」と反発されるということです。
実際にはそんなにあからさまに口に出されなかったとしても。


こういう類の意見は本当によく目にする。
「それは即ち、そういう差別が多くあるって事でしょ?」と言いたい気持ちも解らなくはないが、ちょっと待って欲しい。
先にも書いたが、女性はそういうメッセージだけ(女は駄目だ)を与えられて育つのか?
女性を取り囲む周りの全てがそういう思想のみで構成されているのか?
普通に考えて、そんな事はない。
それ以外の価値観「男女は平等である」という事や、「女性だって社会で活躍出来る」という情報にだって触れる機会はあり、それを志す事だって可能だ。
もちろん、それを志す事が可能なのと、それを実現することは=ではない。 でもそれは、男性だって同じだ。

「男女は平等だ。女性も社会で活躍できる。」というメッセージは誰もが普通に受け取り可能だし、
社会全体がそれを阻害するなんて事は、現代の日本ではまずないのである。


>実際にはそんなにあからさまに口に出されなかったとしても。
これは、何故か?
現代の日本では「女は男より劣ってる」なんて、あからさまに口にしてはいけない時代だから。
世間では、一応「男と女は平等である」って事になっているからである。各々の認識がどうであれ。


で、問題はその「各々の認識」という部分なのだろうが、それはもう、各々が周りとどのように折り合いを付けるか?という問題でしかないと思う。


確かに「格差」は存在する。 存在するが、それはもう「女だから」というだけの格差ではないであろう。
男性にだって、格差は存在するのは自明の事だからだ。
>※「男性と同じ条件下におかれた女性がいる」ことと「すべての男女が同じ条件下におかれている」ことは違います。
確かにそうだが、男性の全てが同じ条件化に置かれている訳でもないのである。
全ての人間が同じ条件化に置かれる事は不可能であろう。(そして、それがすばらしい事であるとは言い難い)




ところで「抑圧」という事に関していえば、現代においては女性より、男性のほうが厳しいのではないか? と思う。
現代の日本において「女性は家庭に入って子供を育てる事」なんていう選択肢以外、推奨されないなんていう事はまず無い。
メディアが社会に進出した女性を取り上げ、「キャリア女性の輝かしい姿」を目にする事だって多い。
では、家庭に入って主婦になった女性が見下されているか?というと、そうではない。
「セレブなマダム」だって、節約上手な「素敵な奥さん」だって、成功者として取り上げられている事もある。
共働きの女性や、離婚した女性が「ワーキングマザー」として取り上げられる事も少なくない。
女性の成功の道はひとつではないのである。*1


翻って、男性はどうか?
彼らの周りをとりまく価値観はほとんどが「男の成功=社会に認められる事」即ち、「仕事の出来ない男は駄目人間」というメッセージなのである。
勉強が嫌いだったり、出来なかったりしても、「○子ちゃんは、可愛いから(気立てが優しいからでも料理上手だからでも何でもいいけど)いいわよ」と言ってもらえる女の子とは違うのである。
いくら本人が心から望んでも「僕、大きくなったら専業主夫になって、毎日美味しいもの作ったりして暮らしたいな」という男の子が「それは素敵なことね」と言って貰える確立は、「私はキャリアウーマンなって、国際社会で活躍したいの」という女の子がそう言ってもらえる確立より遥かに少ないであろう。



本当に男女平等の世の中にしたいなら、男の子が安心して「専業主夫になりたい」と言える世の中じゃないと駄目だと思うけどな。(そういう意味では男女平等は確立されていないね)
それ(主夫)を許さないのは「家父長制度」の怖いお父さん(そんな人がまだいるとして)だけじゃなくて、女性の側にも多かったりすることにも、フェミニスト(というか女性の側)は差別や抑圧を受けてきたものとして、もっと敏感である必要があると思う。



「そんなことは男の問題だから、女性の為のものであるフェミニズムには関係ないんです」って言うんだとしたら、
やはり、私にとってフェミニズムは美しくない。

*1:もちろん全てが成功者として、取り上げられている訳ではないし、それこそ「あからさまにではなく」各々が貶められたりもしているわけだが、果たして万人から認められる人生ってあるのだろうか