非モテに関する身も蓋も無い話


日記の中でカムアウトしているが、私はアセクシャル(Aセクシャル)である。(ちなみに私は恋愛感情なし、性的欲求なしのアセクである)
従って、恋愛市場からは遠い所(降りた所)にいる。私がアセクだという事を知らない第三者(知っている人だってそう思っているかもしれないが)から見たら「非モテ」である。しかも、高齢の。 他人から見たらまさしく「そんなんで、あんたこの先どうするの?」である。
大きなお世話である。「私の人生だ。ほっとけ」ってなもんだ。


で、「非モテ」問題は「大きなお世話だ」と言えない人、言ってはいても心からそう思えない人の問題なのだろうと思う。


恋愛至上主義の恋愛市場の世の中の、「人は恋愛したり、結婚したりしてあたりまえ。出来ない奴は屑」というプレッシャーが存在する。 「何事も世間様の思い通りに、期待通りに振る舞わなければ…」と思ってしまう人達にとってはツライものであろう。だからと言って、恋愛市場に乗っかってしまうのもツライ。
そこでどうするか? 脱オタ*1して頑張って恋愛資本主義に乗り込む人、恋愛はバカのする事と割り切ってしまう人、恋愛資本主義をぶち壊すべく革命を企てる人、等々人それぞれ様々な対処法を取っているのは、いまさらである。


でも、非モテは自意識の問題(つまり第三者がその人を非モテと認識するかどうかというより、自分で自分をどう認識するかという問題)なので、非モテという認識から脱却しない限り、どんな対処法を取ろうと根本的な解決は無いのである。
だったら、自分で非モテだって思わなきゃいいじゃん、というのはあまりにも身も蓋もない話だ。(まあ、本当はそれで済んでしまう話でもあるけど)
それに、非モテは自分で勝手に思っているというより、そう思わされているというケースが非常に多い。何によって? 世間からの圧力によって。


恋愛が出来ないという人のみならず、恋愛をしたくない、興味がない、という人にまで、「それは結局非モテなのだ」と思わされてしまうくらい強い圧力を非モテは感じている。


でも、ここで更に身も蓋も無い事をいうと、世間ではその人がモテるかモテないかなんて、そんなに重要な問題では無かったりする。よく考えれば、誰だってそんな事わかるだろう。 モテるかモテないかで、その人の全てが判断されるなんて事は、本当はないのだから。 世の中は、恋愛を軸に回っている訳ではないのだから。会社に入ってどれだけモテようとも、仕事が全然で出来なきゃ駄目社員なのである。(仕事が出来る人がモテるというのとは、別問題) 会社はそもそもは恋愛感情などというプライベートな問題を持ち込む場ではないから。
もちろん、世の中は(というか社会生活は)会社だけで出来ている訳ではないので、プライベートな場というのも出てくる。*2


では、そのプライベートな場って「モテるかモテないか」といういわゆる恋愛感情や性的な事柄だけで構成されているのか?
そんな事はないと思う。あたりまえだ。同性間(性嗜好対象にならない相手)との関係もあるわけだから。*3
そうすると、問題は非モテは異性との関係においてという事になる訳だが、プライベートにおける異性の関係も、「恋愛感情や性的な事」だけで構成されている訳ではないと思う。 もちろん「それ」しかないっていう人だっているかもしれないが、それが世間の大部分なのだろうか?  私にはそうは思えない。(それはオマエがアセクのババァだからだろって見方もあるかもしれないが)
大体男女が2人で歩いているからと言って、その2人が恋愛関係にあるとは限らないのである。 だとすると「モテるかモテないか」というのは、恋愛感情や性的な事にからんだ局面に於いて立ち上がってくる問題だとも言える。



という訳で突き詰めると
非モテ問題は、社会生活の中のプライベートにおける場の異性間での一部の局面での関係性における問題」という、ある限られた場での関係の問題に過ぎないと捉える事も可能だ。「そんな事どうでもいいよ」と言える人には本当にどうでもいい問題であったりもする。(だからと言って全ての人にそう思えって話じゃない)
でも、そう言えない人にとっては、その限られた場での問題が、「世間からの圧力」として大きな問題に感じられている。
すなわち、「世間は、その『限られた場での関係に過ぎないような恋愛の問題』をそれほどまでに重要視している」とも取れるが、果たしてそうだろうか?



で、こちらの記事と、
2006-11-27
コメント欄から発生した掲示板を見て思ったのだが、そうした「恋愛の問題」を重要視しているのは、世間というより、非モテ(モテるかモテないかを気にする人)側なのではないだろうか?


ここの掲示板では主に「非モテは女性に奢るべきか否か?」という議論が交わされている。
前提は「相手が女性だからという事で慣例(男性が女性に奢るという)に従って奢るべきかどうか」なのだが(モテたい非モテは…とかいろいろ想定されているが)
割り勘希望の女性(女子力が弱い女性)に対する配慮の面からも語られている。
で、慣例に従うかどうかという話は(それがこの掲示板での議論だが)ちょっと脇に置いて、その背景にある価値観(というか考え方)について少々思った事がある。
*4




そもそも「奢る/奢られる」という関係に全て恋愛(モテ非モテ)が絡んで来るのだろうか?
それが、男女1対1の間だとしても。
「誘ったらから(相手が貴重な時間を割いてくれたから)」とか「楽しかったから」とか「相手に喜んでもらいたいから」とか言う感情は、恋愛を前にした局面にしか出て来ないのだろうか?
「食事を奢ってもらう事が相手を喜ばすとは限らない」という相手の気持ちを尊重する態度は有りかもしれないが、素直な意思表示としてそうしたいと思う気持ちは無いのだろうか?
奢るという事は本当に「「私は貴方に見返りを期待していますよ」というサインになってしまう」のか?


奢る男性側は、「見返りを期待するというサイン」と受け止められる事にプレッシャーを感じ、奢られる女性側は「見返りをよこせ」というプレッシャーを受けるという事のようだが、ほんとうに「奢る/奢られる」という関係ってそういうサインしか発しないのだろうか?


そのプレッシャーを感じる側が、過剰にそういう意味付けをして、過剰にプレッシャーを感じてしまっているという側面はないのだろうか?
非モテによる、その過剰な意味付けが、非モテという問題を殊更にキツいものにしてしまっているという事はないだろうか?



私から見ると、非モテ側の人達、恋愛至上主義に違和感を感じる人達のほうが、逆に恋愛至上主義的な感覚を持ってたりするように思うのである。
「奢ったんだからヤラセてよ」という感覚が世間の主流だと信じている人は、異性間の「奢る/奢られる」の関係に恋愛のパワーゲームしか見出せない恋愛資本主義に踊らされている人と同じ価値観に縛られているのではないか?


女子力の弱い人も同じである。
「奢る/奢られる」の関係に男女の権力関係や「金で買われる」のような被害者的なサインしか読み取れない(もしくはそれを強く感じてしまう)という事は、やはり、そのような価値観に強く縛られているのと、同じ事ではないのか?
「現に、『奢ったんだからヤラせろ』という男性がいるからだ」という事なのだとしても、別にそう思っていない人も結構いるのに、「ヤラせろ派」の価値観に重きを置いてしまっているのだから。
それに、「奢ったんだからヤラせてよ」という男性が居る=その考えが主流 って、痴漢する男が居る=男は痴漢みたいで、ちょっと失礼な見方にも感じるんだけど。



現に私はアセクシャルで、アセクシャルだとカミングアウトした後も普通に奢ってくれたりする男友達(すなわち見返りを期待しない人)も結構居たりするし、奢りたいから奢る人、普通に奢りとは贈与であると考えてる人も、結構居たりする。
「それはそういう人が居るってだけの話でしょ?」という見方もあるけど、逆に「「奢るからヤらせて」っていう人も結構いるってだけの話でしょ?」という見方も出来るのである。


本当に個人的な見解だけど、非モテも女子力の弱い人も、自分で自分が辛くなってしまう価値観に重きを置いて、その上で自己を規定しようとしているように見えてしまう。
非モテは自意識の問題だから、そうなってしまうのも仕方の無い事かもしれないけど、だからこそ「認識のありようでなんとかなる部分もある」とも言えたりするのではないか? と思う。
まあ、その認識の仕方自体が、自意識と絡んでるから厄介なんだろうけどね。

*1:オタ=非モテって訳ではないと思うが、なんかそうう文脈で使われてるね

*2:もちろん、非モテの問題はそのプライベートな場においての話が前提なのだろうけど

*3:もちろんその同性(だけじゃないかもだけど)からの「モテないなんて、プッ(w」という圧力の問題もあって、こちらの方が本当は問題なのかもしれないが、それは次回

*4:自分がどうしたいのか?という主体的な視点ではなく、どうすべきかという視点で語られているのも興味深い