非モテよ、努力せよ! しからんずば…

久し振りの更新です。


前回の記事に書いた(とてつもなく前の事ですが)「『恋愛出来ない、したくない』という人は駄目人間である」という抑圧の事を考えていたら、こんなに時間が経ってしまった。

と言うのは嘘で、本当は考えているうちにどうでもよくなってしまったのである*1
結局の所、私の中には「恋愛したい」という欲求は見つからないし、周りからの抑圧というのも「関係ない人が何か言ってる」くらいで、軽くスルーできてしまうようなものだったのだ。

だからと言って、そうした抑圧は無いのか? というとそうではない。
上記はあくまでも「私の場合は」の話であり、それは私がアセクシャルで「他人にどう思われても別にいいや」と思える図太い神経の持ち主だったからというだけの話で、そうではない人「世の中からの『恋愛できないなんて…』というプレッシャー」を感じてしまう人は、確実に存在する。

しかし「恋愛ができないくらいで差別されるなんて事、あるの?」という疑問もあり、そういう目でみるならば、実際に「恋愛できない人は就職できない」とか、「恋愛できない人は選挙権がない」という差別があるわけではないので『社会的な抑圧』というものは無いように感じる。
となると問題は「恋愛至上主義なり、恋愛資本主義なりを内面化させてしまっている『非モテ』側の自意識」なのだ。という所に落ち着きそうである。
だが、本当にそうだろうか?

実際私もそのように考えてていた。
恋愛なんてプライベートな問題で、「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』なんて本気で言ってる人」の方がどうにかしてるわけだし、そんな人の意見に振り回されてしまう側の自意識や主体性に問題があるんじゃないのか? と。
「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』と本気で言ってる人」という人は現に存在するが、そう言う人に対して「いくらなんでもそれはないだろう」というツッコミは可能だ。
「恋愛したくない」と思っている人にとって、「したくないならしなければいいじゃん」という意見はあり、それでも「でも恋愛してないと周りが…」とグダグダ言ってる人は自分自身がそういう価値観を内面化してるだけじゃないかと*2
一方「恋愛したいけどできない」という人に対しては、前々回の記事で書いたようにダブルバインドの問題もあってなかなか困難ではあるが、それも結局は自意識と主体性でなんとか折り合いを付けていけるんじゃないか? と。

だが、この問題はそんな個人の自意識のレベルではないような気がしてきた。

さっき私は「『恋愛ができない人は人間性に問題がある』なんて本気で言ってる人」に対して「いくらなんでもそれはないだろう」というツッコミは可能だと書いた。
私は可能だと思っているし、そう言う人に対して平気で言える。「いくらなんでもそれはないだろう。」と。
では、こういう発言だったらどうだろう。
「今までに誰からも愛されなかった人、愛さなかった人は人間性に問題がある」
先の「恋愛ができない人は…」に比べて正当性があるように思えないだろうか?
「酷い言い方だけど、まあそうかもしれないな…」と思うのではないだろうか?
私自身、上記のような発言に対して「いくらなんでもそれはないだろう」と即座にツッコミを入れる事はできない。「確かにそれはそうかも…」と思ってしまう。
では、それは間違ってはいないという事だろうか?

その前に、そもそもそんな人「今までに誰からも愛されなかった、愛さなかった人」というのは存在するのだろうか? という事を考えてみたい。
「今までに誰からも愛されなかった人なんて居るの?」
居ないとは言い切れない。
「他人からはともかく、親だっているでしょうに」という意見もあろうが、親が居ない人だって居る。居たとしても親から愛情を向けられなかった人だって居る。親は愛情を注いでいたが、本人はそれが愛情だと感じなかったケースだってある。
「愛されたかどうか?」というのは「本人が愛されたと感じたか」というというのが問題であって、「愛された事がない」と本人が思い込んでいれば、その人は「愛された事がない人」になってしまうのである。
という訳で「愛された事がない」人は存在すると言える。

では、「愛した事がない人」は存在するのか? これも同じ事が言えると思う。
本人が「これは愛だ」と思って相手に感情を向けたとしても、それが「愛」とは受け止められないケースもあるし、時には暴力として捉えられかねない事もある。そもそも「愛とは何か?」という事が解らない人だっているかもしれない。
と言う訳で「愛した事がない」という人も存在すると言える。

こう考えると、先の「今までに誰からも愛されなかった人、愛さなかった人は人間性に問題がある」というのは、もっと正当性を帯びてこないだろうか?
「他者からの愛を感じる能力がない」という事に於いて。
そして「他者への愛を表現する能力がない」という事に於いて。

こう考えると、うっかりと頷いてしまうのだ。
「そう、そういう人って人間性に問題があるかもね」と*3

だがしかし、問題のない人間性ってどういう人間性なのだろう?

「愛される人間性」と言う事か? 愛されている人は人間性に問題がないのか?
人間性に問題がないから愛されているのだろうか?
では、いわゆる反社会的行動をしている人でも、恋人が居る人は人間性に問題はないということか? 人間性に問題があっても恋人がいればOK? 
「愛する事ができる人」は人間性に問題はないのか? では息子可愛さのあまりお嫁さんを虐めてしまうお姑さん*4人間性に問題がないのか?
恋人を愛するあまり束縛しすぎてしまう人は問題はないのか? それを愛とは言わない? では「愛」って一体何?

愛する事、愛される事に本当に人間性は関係あるのだろうか?
「恋愛ができない人は人間性に問題がある」
「誰からも愛されなかった、愛さなかった人は人間性に問題がある」という『人間性』はどのようなものを示すのだろう。
それは何処から観た、誰から観た人間性なのだろう。

極論を言ってしまえば、恋愛に限った事でなく、人間関係に於いて人間性なんて割とどうでも良い話なのである。
問題はその関係者においてどのような関係を築けるか? にあるわけだから。
こうなると、コミュニケーション能力の問題*5になってくると思う。

「でもコミュニケーション能力が低いのって問題なんじゃないの?」
「コミュニケーション能力を付けたほうが良いんじゃないの?」という意見も当然出て来るであろう。
じゃあ、コミュニケーション能力って一体何?

私は積極的に非コミュだが、いわゆるコミュニケーション弱者ではない。
初対面の人とも平気で話せるし、大勢の前で話すのも平気*6
アセクシャルだけど男性恐怖症でも性嫌悪でもないので、異性とお話する事だって平気。下ネタだって別に嫌悪感はないし、性的欲求ギラギラの視線(どんな視線だ)を向けられたって構わない。「セックスしよう」と言われれば(言われないけど)「嫌です」と相手の気持ちもおかまいなしに言えばいいだけだ。過度に攻撃的な非モテより、人間性としては私の方が問題あるかもしれない。というかある。
こんな私だが、有り難い事に友人はいる。
アセクシャルを自覚する前は、付き合った事もある。
別に何も努力した訳ではない。それどころか、思いやり深くも無かったし、常に人の為に何かを考えるなんて優しさも持ってなかった。我が侭だし、自分に甘く他人に厳しく、気を使うなんてまっぴらなので、積極的非コミュでいるわけだけど、幸運にも私を受入れてくれる人が居たというだけだ。
私は恵まれていると思う。 もちろん、離れて行った人だって居る。
カミングアウトしたとたんに連絡が来なくなった男友達とか。
別に彼らを恨むつもりはない。 彼らにとって私はそれだけの人間だった、というだけの事だから。
そして、このように考えられる図太いメンタリティが持てた事も、私は恵まれてると思っている。これも努力して身につけたものではない。 たまたまそうしたメンタリティを身につけ易い環境で育っただけの事だ。
私がコミュニケーション能力があるか無いかは読者の判断に任せるとして、なんの努力をしなくても一応のコミュニケーションって取れてるのである。理不尽な話ではあるが。

私の個人的な考えを言えば、人間関係なんて努力だけでなんとかなるとか、そんな単純なものではない。もっと不条理で複雑で厄介なものだ。

勉強や運動なら努力で上達する事も可能だが、それにだって的確な指導やトレーニングというものが必要で、闇雲に努力したって報われないと言う事もある。体力や能力の限界だってある。
それはいたって仕方ない事で、世間的にも「触れてはいけない」というコンセンサスは漂っているようにも思える*7

何故、コミュニケーションの問題の場合殊更に「努力しろ」とか「努力が足りない」とか「努力もしないでグダグダ言うな」な空気が蔓延してしまうのだろう。 非常に不思議だ。

恋愛できない事が原因で「女なんか糞だ!」と言い出す人がいるからだろうか*8
私の個人的な感覚では、そこまでこじらせてしまった人はレアケースに見えるのだが、多数派なんだろうか?
「努力しろ、努力したくなければグダグダ言うな」という空気はそう言う人をさらにこじらせ、そうではない人達を追い詰めてしまうように思える。

個人的にはコミュニケーション能力の問題は「社会問題」として扱っても良いのではないか? と思いつつもあるけれど、個人レベルでできる事からで言えば「努力しろ、それが嫌なら黙って死ね」的な空気が蔓延するのは押さえたい。
出来る事なら、今の面倒でハードルの高いコミュニケーションのあり方を、少しでも緩いものに変えて行く(もしくはそういう選択も有りな方向に)変えてゆくためにはどうしたら良いか? を考えてみたいと思ってはいる。

*1:考えているうち「非モテ」問題も下火になっていったような感があって、それも「どうでもいいや」感を加速させたような

*2:だいたい抑圧というものは「そうであると思い込まされている」ところから来る物であり、「別にそうであると思い込まなければ良いのだ」と気がつけば、抑圧からは(ある程度)解放されるのではないか?と個人的には思っている。

*3:「アセクの私は性的対象としては愛してないけど、家族とか友達とかは愛してるし愛されてるもんね。」等と言う卑怯な言い訳をしつつ

*4:発言小町のネタのようにベタだが

*5:そしてコミュニケーション能力がないと就職に於いて不利という事は事実としてある。選挙権は剥奪されないけど

*6:小さな派遣会社でビジネスマナーのトレーナーや、イベントの司会なんかもしてたから。

*7:学歴問題やワープア問題には自己責任論もあったりはするが、あまり表立って「いわゆる世間話的に」そこを突っ込まれる事はあまりない。まあそれもある種の差別ではあるのだが

*8:2ちゃんねる男女板にいるような人とか。個人的には言いたいなら言わしておけば?という感じ。適当にガス抜きさせておいた方がかえって安全かもしれません