トラックバックが来た


久しぶりに開いたら、トラックバックが付いていた。
それがどんな内容であれ、反応があるというのは、嬉しいものである。
(これはもちろん、「私の場合」中には「自分の思ったとおりの反応や意見じゃないと嫌」という方だっている)


トラックバックがあったのは前日(といっても10月4日)の日記
現代のフェミニストは美しくない - どうでもいいことかもしれない」に対して。
読んだ方が、思うところを記事にして、トラックバックして下さったのである。


その方の日記のコメント欄に書こうと思ったのだが、
「※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。」との事なので、
表示されない可能性もあるので、こちらに書いてしまうことにした。


というわけで、結論から書いてしまおう。


この方は記事の中で
「誤解って、誤解される方が悪いのか?」と仰っている。


個人対個人の関係の中での誤解というのは、良い悪いの問題ではないと思うのだが、この場合(フェミニズムが誤解される事)は、フェミニズムの在り方や、フェミニストの方に問題があると言えなくはないと思う。


何故か?


フェミニズムというのは、思想であり運動であるからだ。


私個人の意見ではあるが、運動というのは、社会的な物であり、それによって何らかの成果が伴わなければ行う意味がないのではないか?と思う。
今の社会の現状に不満があるとして、その不満を解消する為に、社会をどのように変えてゆくかを考え、それに伴い行動し、社会を変革してゆく。
そういうものが「運動」ではないかと思う。

例えば、男性にしか参政権がなかった時代、女性にも同じ権利が欲しいと思い(現状を変えたい)行動する事によって、女性は参政権を得た訳だ。
もちろん、その要求は始めからすんなり聞き入れられた訳ではないだろう。
聞く耳持たなかった人も多かったに違いない。
でも、かつての女性たちは様々な働きかけをして、それを成し遂げて来たわけだ。


聞く耳持たない人に、何を言っても仕方ないもんね」という姿勢では、こうはいかなかったであろう。
多くの人に耳を傾けさせるように、そして納得させるように働きかけてこそ、意味あるものになるのではないだろうか?
「解ってくれる人だけ、聞いてね」では愚痴と同じである。


私が現代のフェミニスト達に抱く印象
「基本的には男女平等になってるのに、さらにどうしたいと言うのか? フェミニズムは本当に必要なのか?」
が誤解であるならば、その誤解を解き、(フェミニストが考える)正しい道を啓蒙していかなくてはならないのでは?
それが、「運動」ってものではないかと、私は思う。
(更に個人的な意見を言うと、もうフェミニズムという運動そのものに必要性を感じないけどね。)



というわけで、私は「女性のものであるフェミニズムが女性である私にそのような誤解を与える姿勢って(運動として)どうなの?」と問うたのだ。
様々な働きかけを試み、それが有効でないなら、また新たな働きかけをしていかないと、運動として効果がないと思うが、フェミニストの方々はその辺りをどうお考えなのだろう?



さて、先程私は「個人対個人の関係の中での誤解というのは、良い悪いの問題ではない」と書いた。
私は、個々の間に生じる誤解というのは、生じ得るものだし、生じてしまうものだと思うからだ。

ある人が、ある物事や人物に対して、どのような印象や感情を持とうが、
基本的にはその人の自由である。


例えば、Aセクである私に対して、「要するにモテないって事でしょ」とか
恋愛ニートみたいなものですね」と思ったとしても、それはその人の自由だ。
もちろんこちらにも「誤解を解く」という自由もある。
なので「それは違う」と説明なり、弁明なりする事だって出来るのだ。
でも、それを受入れるかどうかはその人の自由である。


「誤解を解く必要がある」と思えば、様々な手法でそれを行えば良い訳だし(もちろんその際、自分に相手を納得させられるだけの能力があるか?という事も問題になるのだが)それが無理であれば、また別の対処の仕方を考えるべきであろう。
要するに、「他者とどのように折り合いを付けるか」という問題になってくると思うのである。


私個人の考えでは、フェミニズムはもう社会的な問題ではなく、
こうした「個々人の折り合いの付け方」の問題になっているのではないか? と思う。
直接的な*1制度上の差別(法的な差別)が無くなった以上、
もう、フェミニズムという運動はその役割を終えているのではないか?
私は、そう考えている。
(この件に関しては、長くなるので、後日また書く事にしよう)



ところで、蛇足ではあるが、「誤解される方が悪いのか?」に少々補足。


私個人としては「誤解される」というのは、良い悪いの問題ではないと思っているというのは上記の通り。
トラックバックして下さった方も、「誤解される側だけが悪いのではない」と仰りたいようである。


でも、そうではない(つまり誤解される方が断然悪いという)ケースだってあるみたいですよ、というお話をひとつ。
フェミニストの方々に解りやすい例で考えてみましょう。)


ある男性社員が女性社員に「今日は奇麗だね」と言ったとする。
言われた女性社員はそれをセクハラだと思った。
セクハラ成立である。
なにしろセクハラというものは、受けた側が「セクハラだ」と思ったらそれで成立してしまうものだからだ(私はそうフェミニストの方に聞いた)。
男性社員がいくら「それは誤解だ」と言っても無駄なのである。
だって、受けての女性が(それが誤解だとしても)「セクハラだ」と思ったのだから。
「誤解って、誤解される方が悪いの?」なんて聞いたところで、
女性に優しいフェミニストの方々はこう答えるであろう
「そんな誤解されるような行動を取る男が悪い」と。



と言う訳で、誤解される方が断然悪いって言うケースもあるみたいですよ。

*1:間接的な差別はとの事なのでこう記す。でも、差別もあるけど、優遇も保護もあるよね

現代のフェミニストは美しくない


誤解を招いてしまう事を覚悟で書くけど「美しくない」という印象がある。
「美しくない」っていうのは、顔がとかそういう事ではなくて、
スタンスというか、あり方が。
もちろん、偏見であることは承知の上で。
あくまで、イメージの問題ではあるのだけれど、フェミニストが聞いたら怒るよね。
「もっとフェミニズムについて勉強してください」とか、言われそうである。
それとも、「こいつは馬鹿だ」と思ってあきれ返るか。
(そのほうが多いかもしれない)



でも、申し訳ないが(というのも変だけど)勉強する気にならないのだ。
何故か? 「美しくないから。」
もちろん、これは私の個人的な意見というか、見方でしかないから、
フェミニズム」が人類にとって(大袈裟な物言いだ)価値がないとか、
意味がないとか言うことではない。
もちろん、「意義」を感じて運動なりなんなりなさってる方々はいて、
それは、別にいいんだけど、私の様に、女でありながら「違和感」を感じてる人もいないわけではない、と思う。


で、「女性の為の」もの(らしい)のフェミニズムが、
当事者である女性に、こういう印象をもたれてしまうのは、
いかがなものか?っていうお話を、ちょっとしてみようと思う。



まずは、何故「美しくない」と私は感じてしまうのか?
というところから。


まず、第一に思うのは、この運動の「ゴール」が明確でないところ。
「貴女達は、一体どのような状況になったら、満足するの?」
と、どうしても思えてしまうのだ。

平塚らいてふの頃ならともかく、
現代において、本当に「男女差別」って制度として存在するの?
例えば、「女には選挙権がない」とか、「女は学校には行ってはいけない」とか、
そんな制度もうないでしょう?
今の世の中、女はなんだって出来る様になってると思うんだけど、違うの?
宇宙にだって行けるし、会社だって作れるし、子供だって産める。
「総理大臣は男だけ」とかいう法律だってないでしょう?
男女共同参画基本法」って制定されたんじゃないの?
一応、制度の上では「平等」になってると思うけど。


「国会議員の数は男性の方が多いのはおかしい、男女半々に…」とか言う人もいるけれど、
女性は立候補してはいけないという法律はない。
女性に投票してはいけないという決まりもない。

立候補するのは、自由であり、そしてもちろん誰に投票するかも自由なわけだ。
機会の平等はすでになされていて、その結果として、今の状況がある思うのだけど、違うのだろうか?
それとも、フェミニストは「議員の半数を無理やりにでも女性にすべき」とでも言うの?
それこそ、人権の蹂躙、思想の弾圧ではないのか?


「女はなんだって出来る」って書いたけど、もちろん出来ない人もいる。
例えば「宇宙飛行士になりたい」って思っても、なれない人など。
でも、それって「女だから」ってだけじゃないでしょう?
男だってなりたくてもなれない人だっている。  あたりまえだ。
これは「社会」とか「制度」とかの問題ではなくて、
個々の能力とか状況の問題だって関わってくるからでしょう?


早い話が、「自己実現とかの面でいろいろ不合理を感じているとして、
それは、本当に社会だけのせいなの?女だからってだけの理由なの?」って話である。

なんだか、フェミニストの人の話を聞いていると、「社会のせい、制度のせい」と、
なんでもかんでも「人のせい」にだけしているように聞こえてしまう。

これは非常に、美しくない印象である。





次に、
「男=強者 女=弱者」の図式。
本当にそうなのか? 
これも、昔ならばうなずけるものもあったけれど、現在においては、
必ずしもこれだけでくくれないものがあるように思う。
「男性は見る性であり、女性は見られる性である」なんて、
今はもう、崩れているでしょう?
恋愛市場においては、「女が男を選ぶ側」だなんて、もう普通のことでしょう?
DV等の問題では、被害者は女が多いけど、男だって被害にあってる人もいる。
女であることで、優位に立てたりすることだって、全くないとは言い切れないと思うのだけど。
そういうことって、なんだか「ないことになってる」という印象がある。


確かに、「男性=強者 女性=弱者」で、女性は男性に(男社会かな)に抑圧されてきた、という歴史はあったかもしれない。
でも、現代は「それ」だけでくくれるような単純な話ではなくなってきてはいないだろうか?
女性が男性を「抑圧」してるということって、皆無なんだろうか?


その辺りがなんとなく「自分のことは棚上げ状態」に思えて、これも非常に美しくない印象なのである。



もちろん、何度も言うがこれはあくまで私が「現代のフェミニズム」に対して抱く「印象」だ。


私の文章を読んだ人が「こいつ、馬鹿じゃないの?」と思うことが自由であるように、
私が「フェミニズム」に対してこういう印象を持つのも、自由である。


もちろん、「それは誤解です。フェミニズムはそんなこと主張してません」という話もあるだろうけど、
では、そのような誤解を与えてしまう主張の仕方ってどうなの? という話だってある。
最近フェミニズムや、ジェンダーフリーに対してのバックラッシュが問題にされたりしているようだけれど、
それが、フェミニズムに対する認識不足や誤解から生じるとして、では、誤解を与える側には、全く問題がなかったのか?
という話である。



理解できない奴は、馬鹿で古い観念に囚われたかわいそうな人ってだけで、終わらせてしまって良いのだろうかね?
フェミニスト」の方々はその辺、どう考えているのだろう?



ところで、どうでもいいことだけど、
田島陽子をテレビで見るたびに私は「この人はもしかして『女は馬鹿だ』って思わせるためにわざとこんなことを言っているのか?」って私はおもうのだが、フェミニストは彼女のことを、どう捕らえているのだろう?
もちろん、人それぞれに考え方はあるのだろうけど、フェミニスト全体の傾向としては、「アリ」なのかな?「ナシ」なのかな?

アセクシャルであるということ


どうでもいいことかもしれないけど、私はアセクシャルである。
(いきなり私は○○であるって言うのってなんか偉そうですね)
アセクシャルであるけれども、私のアイデンティティの全てが
それで構成されているわけではないので、
普段は、そんな事意識していないし、不都合もとりたてて感じない。
でも、たまにそれを意識せざるを得ない時がある。


最近では(といっても流れの速いWEB界では「いまさら」感があるけど)
文化系女子」問題と、
「男女間の友情は成立するか?」問題の時だった。
まあ、言ってみればジェンダー界隈の問題という事だろうか?


で、これにアセクシャルが何の関係があるのか? 
というと、何の関係もない。
この何の関係もないというところが問題だったりする。
アセクシャルという存在は、この様な問題においては「部外者」であるから。


たとえば、「男女間の友情」の問題にしても、
私の個人的意見としては「成立する」なのだが、
「そりゃ、アンタがアセクシャルだからでしょ?」
って言われてしまえば、おしまいである。
文化系女子」問題にしても、
私が感じたのは「文化系女子」と言われる人々の反発の強さ*1
なのだが、それだって「そりゃ、アンタがアセクシャルだからじゃん」
って話になってしまいそうなのである。


で、聞き手(というか読み手)にそう思われるのは、仕方の無いことなんだろうけど、
この「部外者はすっこんでろ」とまではいかなくても
「所詮は部外者だからねぇ」という視線は、
やはり、「自分がアセクシャルである」ということを認識させるのだ。


「だから、何だ?」という話だけれども、
まあ、部外者だから見えることもあるかもしれない、というお話。
もちろん、部外者だから「全然解ってない」
ということにもなりえるというお話だったりもする。
というか、ここで「語る」ことは、ジェンダーとか自意識とかそのあたりの話が
多くなりそうな予感なんだけれど、
その「語り」にはアセクシャルとしての
(もちろん総意ではない)
視点が入っていますよという、エクスキューズだね。


どうでもいいけど、2日続けて言い訳になっているところが、
情けないと言うか、さっそく無様をさらしているわけだが、
おばさんだから、まあいいか。

*1:ものすごく平たく言ってしまうと「それって、自意識過剰なんじゃないの?」って話ですが、後にちゃんと書きます。

書くということ、語るということ



はてなダイアリーに登録してしまった。
登録したから、ここで日記のようなものを書いているわけだが。


で、どうでもいいことなんだけど、今WEB上で日記というか、
ブログのようなものを公開している人って、どのくらいいるのだろう?
どれだけの人が、WEB上で「何か」を書き、また語っているのだろう?



その「何か」は日常の些細な記録であったり、育児日記のようなものだったり、
もしくはこのはてなダイアリーにも多くあるような言説めいたものだったりするわけだけど、
かなり多くの人々が「何か」を書き、また語っているのではないか? と思う。
(私のその中の一人なわけだが)


大体、WEB上で書いたからと言って、それが誰かの目にとまるという保障はない。
(と言っても、チラシの裏に書くよりかはその「可能性」があるので、
何を書いても、例えば「てめぇらみんな○んじまえ。タコすけが!」とか書いていいわけではない)
荒野で呟く独り言のように、誰の耳にも届かないかもしれないのに、
何故、人は(「私は」と言い換えてもいいけど)何かを書き、語るのか?


それが、「アタシってこういうヒトなのぉ」であれ、
「僕はこう考えます」であれ、「今日の俺」であれ、
それを語りたい、書きたい、公開したいという思いはどこから来るのか?


そんな疑問がかなり前から、私の中にはあった。



「それはね、君。認証欲求というやつですよ」と身も蓋もなく
一言で答えがでてしまうことなのかもしれないんだけど、
もうちょっと、突っ込んで考えてみたかったわけだ。



ここで、何かを「語る」ことにより、何かが少しでもわかるかもしれない。
そんなことを、少しだけ期待しながらちょっと何かを「語って」みることにする。



以上で、言い訳終わりなわけだけど、
読み返してみると、あれだね。
本当にどうでもいいことだね、これは。
大体、いい年こいたオババが、語ろうが語るまいが、
他の人にとってはどうでもいことで、
なおかつ、それがどんな理由において語られるかなんて、激しくどうでもいいと思う。


でも、日記だから、どうでもいいか。