アセクシャルであるということ


どうでもいいことかもしれないけど、私はアセクシャルである。
(いきなり私は○○であるって言うのってなんか偉そうですね)
アセクシャルであるけれども、私のアイデンティティの全てが
それで構成されているわけではないので、
普段は、そんな事意識していないし、不都合もとりたてて感じない。
でも、たまにそれを意識せざるを得ない時がある。


最近では(といっても流れの速いWEB界では「いまさら」感があるけど)
文化系女子」問題と、
「男女間の友情は成立するか?」問題の時だった。
まあ、言ってみればジェンダー界隈の問題という事だろうか?


で、これにアセクシャルが何の関係があるのか? 
というと、何の関係もない。
この何の関係もないというところが問題だったりする。
アセクシャルという存在は、この様な問題においては「部外者」であるから。


たとえば、「男女間の友情」の問題にしても、
私の個人的意見としては「成立する」なのだが、
「そりゃ、アンタがアセクシャルだからでしょ?」
って言われてしまえば、おしまいである。
文化系女子」問題にしても、
私が感じたのは「文化系女子」と言われる人々の反発の強さ*1
なのだが、それだって「そりゃ、アンタがアセクシャルだからじゃん」
って話になってしまいそうなのである。


で、聞き手(というか読み手)にそう思われるのは、仕方の無いことなんだろうけど、
この「部外者はすっこんでろ」とまではいかなくても
「所詮は部外者だからねぇ」という視線は、
やはり、「自分がアセクシャルである」ということを認識させるのだ。


「だから、何だ?」という話だけれども、
まあ、部外者だから見えることもあるかもしれない、というお話。
もちろん、部外者だから「全然解ってない」
ということにもなりえるというお話だったりもする。
というか、ここで「語る」ことは、ジェンダーとか自意識とかそのあたりの話が
多くなりそうな予感なんだけれど、
その「語り」にはアセクシャルとしての
(もちろん総意ではない)
視点が入っていますよという、エクスキューズだね。


どうでもいいけど、2日続けて言い訳になっているところが、
情けないと言うか、さっそく無様をさらしているわけだが、
おばさんだから、まあいいか。

*1:ものすごく平たく言ってしまうと「それって、自意識過剰なんじゃないの?」って話ですが、後にちゃんと書きます。