フェミニズムって本当に必要?

前回の続きである。

前回、私はこのように書いた。

私個人の考えでは、フェミニズムはもう社会的な問題ではなく、
こうした「個々人の折り合いの付け方」の問題になっているのではないか? と思う。
直接的な制度上の差別(法的な差別)が無くなった以上、
もう、フェミニズムという運動はその役割を終えているのではないか?


「何て馬鹿な事を言っているの?差別はたくさんあるのに」と思うかもしれない。
実際馬鹿だからかもしれないが、私にはその「差別がある」という状態がピン来ないのである。
何故なら、私は未だかつて一度も「女であるということだけ」で制度上の差別も、
法的な差別も受けた事はないから。
例えば、「女が勉強するなんて、けしからん!」と逮捕されたり、罰金を支払わされたりという事は一切なかった。


フェミニストの方々は言うかもしれない。
「そういう事を言っているのではない。でも、実際に『女は家庭に入ればいいから、教育は必要ない』と言われたりとか、仕事で活躍しようとしても『女のくせに』と言われたりする事があるんです。」


でも、それって「そういう人がその女性の周りにいる」というだけの話でしょう?
その人がそのような状況に置かれているという事にすぎない。
「女の子には教育は必要ない」という両親に育てられたという事は、「大学? 家にはそんな余裕はないから就職しな」と親に言われた男の子と、何らかわりはないと思うのだけど、違うのだろうか?
このように理不尽な(というか自分の望み通りにならない)状況に置かれている人はたくさん存在する。存在するからどうでも良いという事ではなく、それは特に女性に限った事ではないでしょう? という事である。
男性だからと言って「男だという理由だけ」で理不尽な目に遭わずに、自己実現できる訳ではないである。


「家には大学に行かせる余裕はない」と言われた男の子はどうするか?
親を説得したり奨学金を受けたりして進学するにしろ、あるいは進学を諦めるにしろ、彼は基本的に自分の責任に於いて進むべき道を選択し、歩んでいかなければならない。
それが最終的に彼にとって満足のいく結果になるとは限らない。努力だけではどうしようもない事だって、人生の中には普通にあるからだ。
それは、男女どちらにも言える事だと思うが、「女性だけ」を社会的にそういう不遇から救い上げようとするのは、いくらフェミニズムが女性の為の運動とは言え、如何なものか? と思うのである。


女性の中にだって、周囲の反対を押し切って学問を極めたり、事業を立ち上げたりする人だって居る訳だし。
と言うと「そういう女性が居るからと言って、全ての女性がそう出来る訳じゃない」と返されそうだが、それは「オリンピックに出たい人が居るからと言って、全ての人が出られる訳じゃない」っていうのと、どう違うのだろう。(人生とオリンピックは違う? でもオリンピックに人生を懸けている人はいるよね)


ところで、ちょっと疑問に思ったのだが、現代の日本で、成人するまでの間に、
「女は男より劣っている」とか「女は家庭に入るべき」とか「女は仕事をするな」と言う様な価値観しか与えられなかったという女性は存在するのだろうか?
家庭からも、周りの人からも、学校からも、メディアからも、その様な「女は男より劣っていて、家庭に入って子供産む事しか価値がない」という価値観だけを刷り込まれて育った人って居るのだろうか?
家庭からだけくらいならまだあり得るかもしれないが、その女性の周囲の殆どが、その女性を抑圧する価値観のみで構成されている状況って、ちょっと考えられない。(家庭教育の影響は絶大? だったら世の中の殆どの親に子育ての苦労なんて無い事になるね)



何が言いたいのかと言うと、フェミニストの方々の言う「女性に対する抑圧、差別」って一体どの程度の事なの?という事。


なんだか揚げ足取りのようで大変申し訳ないのだが、ちょうど良い例なので、引用させていただく。ヒギリ氏のご意見がどうこうというより、この言説を目にすることが非常に多いので。
以下「MELANCHOLIDEA -メランコリデア 誤解ですよという主張」より
http://melancholidea.seesaa.net/article/28045819.html

制度的な差別はない。
しかし現状に男女差はある。
たとえば国会議員の数。たとえば賃金の男女差。たとえば社長の数。

なぜか?

差があるならば、そこには必ずなんらかの理由があるんです。
たとえば女は無能だからとか。
でも多分そうじゃないし、
少なくとも無能説を証明できるほど男女は同じ条件におかれていない。
※「男性と同じ条件下におかれた女性がいる」ことと
 「すべての男女が同じ条件下におかれている」ことは違います。


*中略


つまり最初から期待されることが違っている。
「コイツラどうせダメだし」と言われ続け、
ダメであることを期待され教育されて育つ人たちと
「君たちは金の卵さ!」と言われ続け、
有能であることを期待され教育されて育つ人たちでは、
結果もおのずと違うわけです。

“ダメであることを期待される”とは
期待に沿って無能であれば「やっぱダメだな」と言われ
期待に反して有能であれば「ダメ人間のくせに」と反発されるということです。
実際にはそんなにあからさまに口に出されなかったとしても。


こういう類の意見は本当によく目にする。
「それは即ち、そういう差別が多くあるって事でしょ?」と言いたい気持ちも解らなくはないが、ちょっと待って欲しい。
先にも書いたが、女性はそういうメッセージだけ(女は駄目だ)を与えられて育つのか?
女性を取り囲む周りの全てがそういう思想のみで構成されているのか?
普通に考えて、そんな事はない。
それ以外の価値観「男女は平等である」という事や、「女性だって社会で活躍出来る」という情報にだって触れる機会はあり、それを志す事だって可能だ。
もちろん、それを志す事が可能なのと、それを実現することは=ではない。 でもそれは、男性だって同じだ。

「男女は平等だ。女性も社会で活躍できる。」というメッセージは誰もが普通に受け取り可能だし、
社会全体がそれを阻害するなんて事は、現代の日本ではまずないのである。


>実際にはそんなにあからさまに口に出されなかったとしても。
これは、何故か?
現代の日本では「女は男より劣ってる」なんて、あからさまに口にしてはいけない時代だから。
世間では、一応「男と女は平等である」って事になっているからである。各々の認識がどうであれ。


で、問題はその「各々の認識」という部分なのだろうが、それはもう、各々が周りとどのように折り合いを付けるか?という問題でしかないと思う。


確かに「格差」は存在する。 存在するが、それはもう「女だから」というだけの格差ではないであろう。
男性にだって、格差は存在するのは自明の事だからだ。
>※「男性と同じ条件下におかれた女性がいる」ことと「すべての男女が同じ条件下におかれている」ことは違います。
確かにそうだが、男性の全てが同じ条件化に置かれている訳でもないのである。
全ての人間が同じ条件化に置かれる事は不可能であろう。(そして、それがすばらしい事であるとは言い難い)




ところで「抑圧」という事に関していえば、現代においては女性より、男性のほうが厳しいのではないか? と思う。
現代の日本において「女性は家庭に入って子供を育てる事」なんていう選択肢以外、推奨されないなんていう事はまず無い。
メディアが社会に進出した女性を取り上げ、「キャリア女性の輝かしい姿」を目にする事だって多い。
では、家庭に入って主婦になった女性が見下されているか?というと、そうではない。
「セレブなマダム」だって、節約上手な「素敵な奥さん」だって、成功者として取り上げられている事もある。
共働きの女性や、離婚した女性が「ワーキングマザー」として取り上げられる事も少なくない。
女性の成功の道はひとつではないのである。*1


翻って、男性はどうか?
彼らの周りをとりまく価値観はほとんどが「男の成功=社会に認められる事」即ち、「仕事の出来ない男は駄目人間」というメッセージなのである。
勉強が嫌いだったり、出来なかったりしても、「○子ちゃんは、可愛いから(気立てが優しいからでも料理上手だからでも何でもいいけど)いいわよ」と言ってもらえる女の子とは違うのである。
いくら本人が心から望んでも「僕、大きくなったら専業主夫になって、毎日美味しいもの作ったりして暮らしたいな」という男の子が「それは素敵なことね」と言って貰える確立は、「私はキャリアウーマンなって、国際社会で活躍したいの」という女の子がそう言ってもらえる確立より遥かに少ないであろう。



本当に男女平等の世の中にしたいなら、男の子が安心して「専業主夫になりたい」と言える世の中じゃないと駄目だと思うけどな。(そういう意味では男女平等は確立されていないね)
それ(主夫)を許さないのは「家父長制度」の怖いお父さん(そんな人がまだいるとして)だけじゃなくて、女性の側にも多かったりすることにも、フェミニスト(というか女性の側)は差別や抑圧を受けてきたものとして、もっと敏感である必要があると思う。



「そんなことは男の問題だから、女性の為のものであるフェミニズムには関係ないんです」って言うんだとしたら、
やはり、私にとってフェミニズムは美しくない。

*1:もちろん全てが成功者として、取り上げられている訳ではないし、それこそ「あからさまにではなく」各々が貶められたりもしているわけだが、果たして万人から認められる人生ってあるのだろうか