そこに正当性はない

私には「嫌いなもの」が多い。 「好きなもの」も多いけど。
私の好き嫌いの基準は、とても感覚的で独善的なものなので、他者から見れば、何の整合性も脈絡もなく矛盾だらけのもので、リストアップしたとすれば、まさに「私の社会性の無さの証」のようなものにしかならないであろう。
ただ、私は「ただなんとなく嫌いだから嫌い」という状態を、「非常に居心地が悪い」と感じてしまう質なので、自分が納得するような理由付けをしてみたりする*1。  だが、理由付けをしてみた所で、それは結局「何かを嫌う事の後ろめたさ」から目を背ける自己満足でしかないと思う、私にとっては。
私が何かを嫌う時、そこに正当性は何一つないのである*2
「正当性はない」と思っているので「○○なもの(人)は、多くの人に嫌われて当然だ」という見方を私はとらない。 「好き嫌い」といった感覚的な判断に、そういった「数の論理」みたいなものを持ち込むのは、私にとっては「ただなんとなく嫌いだから嫌い」と思ってる状態より、居心地の悪いものだから。
というか「そんなものは嫌われて当然」と言った物言いを耳にする度に思うのだけれど、どうして「好き嫌い」の判断にそういった「数の論理」というか正当性のようなものを持ち込めるのだろう? 素朴に疑問に思う*3。 「好き嫌い」なんて個人の感覚なのだから「皆が好きだって言うから好き」も「皆が嫌いだって言うから嫌い」もアリと言えばアリだが、この「そんなものは嫌われて当然」というのは、なんだか圧力めいたものを感じてしまう、個人的に。
私が何かを嫌う時、そこに正当性はない。 私はそれで良いと思ってる。

*1:「自分が何故それを嫌うのか?」という事を考える作業は、その傾向から自分の価値観や性格が浮き彫りにされるようで結構楽しい。

*2:「好きなもの」でも同じ事であるが

*3:嫌味ではなく本当に