おせっかいなおばあちゃんとやっかいなコミュニケーション

前回の記事のコメントが非常に重要な視点を含んでいたので、コメント返しでは書ききれなかった事を書いてみる。

発端はこの文章から。

寒い日に外出する孫に「上着を着ていきなさい」というのは孫が風邪をひかないか心配する心、老婆心です。それに対して 「うるせぇな!」というのはもちろん自由です。

これは実は「年寄りめんどくせぇ」からの流れで書いたので、別におばあちゃんと孫の会話である必要はなかったのだが、幸い非常に解りやすいたとえになった。
こうした「あなたの為を思って」という老婆心的なものは、「正当性」を持っていると思われやすい(世に言う「正論」なんて正当性がありそうどころか、正当性の固まりみたいなものである。だから正論なんだけど)。
でも、私はあまりそういう事を重視しない。 それよりも私にとってどういうものであるか?を考える。
それは「重要な指摘、新たな発見!」だったり「おお、そうだった忘れてた、忘れちゃいけない事だった」とか「正しい事を言ってるんだろうけど、私には関係ないや」だったり「大きなお世話だよ、全く」や「そんな事、したくも考えたくもないね」や「なんだか意味がわからない」だったり様々だ*1

私は本当に自己中心的なので、それが正当性があろうがなかろうが、目上の人が言おうが年下の子が言おうが、好きな人が言おうが嫌いな人が言おうが、容赦なく「自分には受け入れられない」と思ったら切り捨ててしまうのである。また、「正しい事だし、受け入れたいけど、出来ない」から切り捨てざるを得ないという事も、もちろんある。

こんな感じで独善的に物事を切り捨ててしまう私にはあまり関係のない話だけれど、「正当性を持った意見」や「正論」は受け入れなければならない、と思ってしまう人もたくさんいるだろう。
もちろんそう言う視点も大切だけれど、あまりそう言う事に縛られなくてもいいじゃないか、と私は思っている。 「正当性がある(ように見える)」からと言ってそれを受け入れなければならない、と考える必要はないと私は考える。

ただ、正当性がある(ように見える)事や正論に反発するのは、結構風当たりが強かったりもする*2
おばあちゃんは「親切をだいなしにされて悲しい」と思うかもしれないし、それを聞いていた第三者には「心配してくれているおばあちゃんに『うるせぇな!』なんて酷いわ」と思われてしまう場合だってあるだろう。
それでも、自分にとってそれが「そう言い返す価値のある事」だったら言ったってかまわない。と私は思っているのだ。

たとえそれでおばあちゃんやまわりの人から非難されたり、嫌われたりしても、そんなの怖くない。「それを怖がっちゃったら自分が廃る」と私は思っているのである。

もちろん、コメント欄に書いたような「別の言い方」というのも選択肢の一つ。でも、それで非難される事をかわせるかどうかは解らない。言い方ひとつで印象も変わる。とよく言われるが、実際にはどんな言い方でも気に食わないと思う人もいる。
コミュニケーションはやっかいだ。

それでも「自分で決めるよ」と私は言うだろう。おばあちゃんにとって寒くても、私にとってはそうじゃないかもしれないから(逆におばあちゃんが言う通り寒くて風邪をひいてしまうかもしれないけど、それこそ私の「責任」だ)。 

ここで「私のためを思って言ってくれた」おばあちゃんの言う通りに上着を持っていっても、結局邪魔なだけだったという場合もあるかもしれない。でも、その場合、「邪魔だなぁ」と思っても当のおばあちゃんは上着を預かってはくれないのである。つまり何の責任も取ってはくれない。たとえどんなに私の事を思ってくれていたとしても、邪魔なものは邪魔だ。だったら自分で決めた方がいい。私はそう思う。



さて、コメント欄では「孫」と「第三者」の視点しか書かれてないが、おばあちゃんに視点を当てて、もう少しこの話を考えてみよう。

おばあちゃんは孫が心配で「上着を持っていきなさい」と言った訳だが、この発言で孫に「うぜぇ」と嫌われてしまう可能性がある。また、それを聞いていた第三者に「おせっかいなばあさんだ」と思われてしまう可能性もある。
でも、おばあちゃんが本当にそれを孫に伝えたかったら、伝えればいいのである。たとえ周りにどう思われようとも。 
ただこれも、言い方は自由自在。あまり押し付けがましく思われたくなければ、「今日は寒いから上着を持っていったほうがいいかもねぇ」という言い方も選択出来る訳だ。 ただし、それでも「おせっかい」と思われる場合もある。


ところで、この例では「親切なおばあちゃん」だが、そういう「老婆心的な」発言をする人がみんな親切という訳ではない。
「親切なおばあちゃんと思われたい」から言っているのかもしれないし「孫がひいた風邪を染されたら嫌だ」と思って言っているのかもしれない*3。でもいずれのケースであっても、おばあちゃんがそれを言いたければ言っていいと思う。それは彼女の自由だ*4


同様に、それを耳にした第三者だって、「その言い方はないんじゃない?」と(おばあちゃんに対してだろうが、孫に対してだろうが)言っていい*5
もちろんこの場合だって、「あんたに関係ないでしょ!」と思われてしまうケースがあるが、言いたければ言えばいいと思う。

まるで三つ巴の喧嘩みたいな状況が展開しそうだけど、お互いの意思を伝えるには必要な事だと思っている。殆ど喧嘩みたいに見えても、そういうのもコミュニケーションだと私は捉えているので、どんどんすればいいと思ってる。 なんだか最近はコミュニケーションと言うのが「皆で仲良くすること」みたいに思われているのが*6、私としては少し残念なのである。
コミュニケーションだって、もっと自由でいいじゃん、というのが私のスタンスだから。
「皆と仲良く出来ない」事なんて、私はちっとも怖くないから。

ちなみに、私も「上着を持っていきなさい」という発言はおせっかいだと思うけれど、上着を着ないでいる人に対して、その人が上着を持ってるか持ってないかを確認する事もなしに「上着を着ればいいのに」と言う人よりは、全然マシだと思う。

*1:もちろん、これは時間を経て変わる事もある。「よく解らなかったけど、そういう事だったのか!納得」とか「あのとき素直に言う事を聞いて、そうしておけば良かった」とか「正しいと思ってたけど、そうでもないのかなぁ」などと

*2:しかも今回のケースは相手は優しいおばあちゃん(弱者)である。これはかなり風当たりが強くなる

*3:このように同じ発言でも背景は様々なので、正当性や正論の見極めは慎重にした方がいいと思っている。ただしそんな背景から発せられたアドバイスでも、役に立つ事も有ったりもする

*4:ただ、私がおばあちゃんなら考える「孫の上着は預かってあげられない」という事を。 そして付け加えるだろう「邪魔になるかもしれないけどね。」と

*5:現実の場合は少ないがブログなんかだとよく有るケースである

*6:私は議論もコミュニケーションの範疇だと勝手に思っているので、「非コミュ」の人達の事を、ある意味『全然非コミュじゃないじゃん』と感じる。いわゆる「友達多いよタイプ」の人でも自分の意見が全然言えない人って居るし