表現規制とミニスカート問題


まずはこちらのブックマークコメント。

id:Francesco3 犯罪, 性 だいたい性犯罪に服装関係ないのにまだ責任がどうこう言ってるって……。年寄りめんどくせえって感想しか出てこない。年寄りかどうかしらないけど。

はてなブックマーク - 今更ながらのミニスカート問題 - どうでもいいことかもしれない

仰る通りです。「性犯罪に服装関係ない」のです。

では、何故いまさらミニスカート問題なんぞを出してきて、責任がどうこうとめんどうな話をしたのか?
今回はそんなお話。



前回の一連の記事は、諸事情によりかなりもってまわった言い回しになってしまったので、今回はストレートに結論から。

私はミニスカートと性犯罪は全く関係がないと思っている。
何故ならミニスカートと性犯罪を結びつける確かなデータがないから。

表現規制の問題もそれと同じだと考えている。
何故なら性的ファンタジーと性犯罪を結びつける確かなデータがないから。

ただし、ミニスカートと性犯罪を関連付けて考える人もいるし、性的ファンタジーと性犯罪を関連付けて考える人もいる。ミニスカート問題と表現規制問題を関連付けて考える人が他にいるかどうかは解らないけれど、私は両者は同じだと考えている。両者とも確かなデータもないのに関連付けられ、問題視されているという事において。
そしてもうひとつ。
両者ともに「責任」というものは何らかの形(その形の説明は後ほど)で存在はするが、それを「問う」事は無意味だと言うこと。
これが今回の結論である。


しかし、前回私はこのミニスカート問題の「責任」を問うた。多少トリッキーな形で。
設問自体がトリッキーであったので、記事自体も非常にトリッキーなものになってしまい、何が言いたいのかよく解らない事になってしまったのは、確かである。それをいまさら説明するのはみっともない事であるのは自覚しているが、ちょっと補足的に書いておくことにしよう。

流れはこちらを読んで頂くとして、私はその記事の中で「責任がある」とこんなふうに書いている。

「自由には責任が伴う*3」というのは至ってあたりまえの事だと私は考えているので「責任を取るのは彼女自身だ」と考えるのであるが、それは「そんな格好してたらどうなっても知らないよ」という非常に突き放した、冷たい態度である。

「自由には責任が伴う」というのをもう少し明確に書くと「個人の自由意思でなした決定または行動の結果に於いて責任を伴う」という事である。
これは、普通に読めば「ミニスカートなんてはいてたら性犯罪の被害にあってもしらないよ」と読み取れてしまうであろう。もともとそうした事に言及していた記事に対して書かれたもので「性的ファンタジー」や「被害者」「加害者」「傷つける」などのキーワードがあふれるものの中に書かれているのだから。
ただ、私は一言も「性犯罪にあっても」とは書いていない。「どうなっても」の「どう」とは一体どういう事なのか?というのは、具体的に一言も示してないのである。しかし、この文脈の中ではその「どう」と「性犯罪の被害にあうこと」が結びついても仕方がないのである。
私は意図的にそう書いたのだから。

実際はその「どう」はこちらのほうに結びついているのである。

ただ、私は優しい人間ではないので「だからそんな格好はおやめなさい」とは言わない。好きな格好をすればいいのである。他人からどう思われようとも。

「自分の魅力を最大限に見せる」という基準も「寒いか暖かいか」という基準も「上品か下品か」という基準も人それぞれだし、本人が「似合う」と思って着ているのなら、つまり自分の内面の自由においてそれを選択しているのなら、それは私が「しかし似合ってないな」とか「もうちょっとこの場にふさわしいファッションがあるんじゃないの?」とか「センス悪いな」と思ったとしても関係がないからである。 だから私はそれを口には出さない。余計なお世話以外のなものでもないから*2。

私が問うている「責任」はこの程度のものである。というのは個人の選択した自由に於いて個人が取れる責任なんてせいぜいこの程度のものだと思っているから*1
この程度、上記の場合はその服装を選択した結果、他者である私に「センスが悪い」と思われたりする程度の事なのである。回答者がくれた「暖かい国で」という前提を加えるのなら、寒いのにミニスカートをはいていたので風邪をひいた。というのも本人に責任があると私は考える。
「どうなっても知らないよ」の「どう」とは実はこんな事だったのだ。


ただ、風邪をひくうんぬんはともかくとして(でも風邪は万病の元とも言うのでどうでもいいとも言い切れないが)他者からどう思われるか?というのは大きな問題だったりもする。他者からの評価を自己評価に過剰に結びつけてしまう人がいるからだ。
もちろん、他者からの評価、または他者の視線を気にするのは悪い事ではない、必要な事である*2。問題はその他者の評価や視線のあり方や、その受け取り方である。

「センスが悪い」この一言を「人格の否定」として使う人も居れば、「人格を否定された」と思う人もいるのだ。
これは、とても恐ろしい事だと私は思う。その人の嗜好や好みや価値観をどう捉えるか?というのは基本的には「捉える側の自由」だと思っている*3。例えば、誰かのファッションや映画や音楽の好みに対して「自分とは趣味が合わないな」と思う事は自由だ。ただ、そこに「善悪」をからめたり、ましてやそれでその人の人格を決定してしまう事はしてはいけないと思っている。「趣味」への評価は、純粋に「その趣味そのもの」への評価でなければならない、と。

ただ「その人の嗜好や好みや価値観」を「善悪」で推し量ったり「その人の人格」を勝手に決定したりしてしまう人は存在するのだ。悲しい事だけど。そういう人が存在する限り、他者の評価を過剰に自己評価に結びつけてしまう人、はいなくならないのだろう。

出来ればそういう「趣味が合わない」「価値観が違う」という言葉を人格否定に捉えないで欲しい、と私は思っている。だが、実際にはそうした言説を「人格否定」と捉えてしまう人もいないとは言えない。なので、私は基本的にあまりそういう発言はしない。受け取り方は人それぞれでそれは私自身がコントロールする事は出来ないのだから*4

そう、他者の受け取り方はコントロール出来る事ではない、つまり自分の自由意志とは全く関係ない所にあるのである。
「個人の自由意思でなした決定または行動の結果に於いて責任を伴う」と先程書いたが、その結果である「どう思われるか?」は個人の領域を離れ、他者の手にゆだねられるのである。それに対して「あなたに責任が持てる?」と問えるのか?
ゆだねられた他者の受け取り方に責任は生じないのか?
私は問う事自体に意味がないと思える。


責任は問うのではなくて「持つ」のだ。誰の?「自分自身」の。
「自分自身の意思で選択した自由に於いて、他者からどう思われても怖くない」と思える事。
それが大人だと私は思う。
その結果を引き受けるという事が責任を持つという事なのではないだろうか?



最後におばあちゃんからひとこと。
寒い日に外出する孫に「上着を着ていきなさい」というのは孫が風邪をひかないか心配する心、老婆心です。それに対して「うるせぇな!」というのはもちろん自由です。

*1:この選択にしても責任にしてもこの言葉だけで伝えるのは非常に難しいと感じる。例えば一言で選択と言っても個々の置かれた状況でその選択肢の幅は変わる。私は選択肢の幅が大きければ大きいほど問われる責任の割合も変わって来ると思っている。そして本人に責任がある=本人が悪いであるとは思っていない

*2:私にはそれが無さすぎる。その方が一般的には問題だと思う

*3:私の場合、本気でどう思われてもいいや、と思っているので、この「捉える側の自由」はかなり大きく設定してある。例えば誰かが「お前なんか生きている資格はない、死ね」と面と向かって言って来たとしても「まあ、寿命が来たらそのうち死ぬから待っててね」と言うだけだ。実際に行動を起こされたら話は別。私には抵抗する自由も、法的に訴える自由もあるから。殺されちゃったらそれは天命だから仕方ないのかも

*4:もちろん、意図的にある程度の印象付けは可能である。例えば「個性的だと思われたいから、個性的な服を着る」とか「頭が良いと思われたいから、頭の良さそうな事を言ってみる(私はまさにそのパターン)」とか。ただしこれだって確実性はない。その通りに受け取ってくれる人もいるかもしれないが「ああ、そう思われたいだけなのね」と思われておしまい、という事はよく有る