そんな嫌な奴になるくらいなら、孤独死したほうが幸せです。

こちらの記事で言及して頂いたので、お答え致します。
「それは思いやりではなく自意識過剰ではないでしょうか?」
http://blog.goo.ne.jp/ikafurai007/e/5da7b0f13be6d31b7ffa4c847fea5568

仰る通り、前回の記事で書いた「予期的優しさ」による行動は、思いやりではないと私も思っています。 
で、前回のエントリは、コレが「優しさ」であるとか「努力」であるという話ではなく、それは外部から判断できないというお話でした。

ご理解頂けなかったのは、私の文章力の無さ故なので、もう一度説明致しますが、私はコミュニケーションは努力でなんとかなるものだとは考えておりません。 人間性も関係ないと思っています。 それ故、「努力しろ」というのは無意味であるだけではなく、更に人を追い込んでしまう可能性があるという話をしているのです。

イカフライ様はこのように仰っている訳ですが、

『形式だけでも学ぶ』
と、私自身書いているように、カンジの良いふるまい、感じよいまでいかなくても反感や不快を感じさせないふるまいを心がけましょう。つう話なんですけどね。
例えば、コンビニで買い物をして釣銭を渡された時、笑顔でてきぱき渡されるのと、むすっとした表情で投げるように渡されるのと、どっちが良い?レベルの話です。

世の中には、「コンビニでジュース買ったくらいで丁寧に対応されるのはウザい」と感じる人も、「お客に『ありがとう』と言われるのが大嫌い」という人も(ごく少数かもしれませんが)存在します。
「店員に『ありがとう』という人が大嫌い おかしいでしょうか?」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114818296
ちなみに私は店員さんに「ありがとう」という派です。 レストランで食器を下げてくれるウエイトレスさんにも「ありがとう、美味しく頂きました」と言ってしまうのですが、ある時、友人の友人に「年寄りみたいで変」と言われた事があります。
この「反感や不快を感じさせない」という振る舞い自体が、「こうすれば良い」という一つの答えでは表せない程、今のコミュニケーションは複雑化しているのです。

誰かと話をしていて、内容はなんでも良いのですが、まあ、週末にどこに行った、なんて話題だとします。
その時に、こちらの話を上手く引き出しつつ発展させる人は話していて楽しいし、いい気持ちになります。
一方、自分の話しかしなかったり、何を言ってもむっつり黙り込んでしまう人は、話していても、なんだかなあ、と気持ちが盛り下がって、あまり話したくなくなります。
そこで、自分が興味の無い話題、知らない話題で上手くコメントできなければ、せめて笑顔で聞くか、それとも、話の腰を折ったり、むっつりした顔をするか、それによっても、受ける側の気持ちは違います。

これもケースバイケースでしょう。
常に自分の話しかしない人でも、そのグループのリーダー的存在であれば、周りは常にニコニコ話しを聴いている、というのは良く見かける光景ですし(いろんな会社に派遣として行ったので、こうしたOLさん達のお付き合いはよく目にしました)むっつり黙り込んでいる人でも「クールでかっこいい」と言われる人もいます(私の友人ですが、彼はイケメンではありませんが、結構モテています)。 
また、男子学生の場合は、笑顔で話を聴いているだけでは「面白くない奴」という致命的なレッテルをはられてしまうようなケースだってあるでしょう*1
 と言う訳で、笑顔で人当たりがよければOKという時代ではないのです。 非モテを自称する方々は、私やイカフライ様よりかなり若い方々なのだという事をもっと意識した方が良いのではないか? と思います*2

もう一度言います。
コミュニケーションは、努力でなんとかなるものでも「こうすれば良い」というマニュアルでなんとかなるようなものではないと、私は思っています。 だから「努力しろ」とか「こうすれば良いよ」なんていうアドバイスには意味がないと私は思っています。 
イカフライ様もこう仰ってますね。

>もちろんただ単に気が利かないという場合もないわけではないが、問題は、そういう「気が利かないだけの人」と『予期的優しさ』の結果「気が利かないだけに見えてしまう人」の見分けが外部から簡単には付けられないという事にある。

と言いますが、そんな事は相手から見て、どうでも良いことなんです。
これはParis713さんも解っていることでしょうが、無愛想な人が、単に気が利かないだけであっても、それとも、その「予備的優しさ」とやらの結果であっても、無愛想にされた人間には、結果は同じです。

そうなんです。 どうでも良い事なんです。 仰る通り、結果は同じです。 そしてそれは「常に結果でしか判断されない」と言う事を意味しています。 つまり「どう行動しようと(あるいはしなくても)相手の受け取り方次第でどのようにも捉えられる。」という事でしかありません。 重要なのは過程ではなく結果のみという訳なので、努力やマニュアルでなんとかなるものではないのです。
非コミュ非モテを自称する側はそれを踏まえて「相手がどう思うか?」という事を必要以上に気にしてしまうのですが、それを自意識過剰、または過剰な自己防衛と仰りたいのでしょう。 確かにそうだとは思います。 彼らは考え過ぎなのです。 私の様に考えなしに「相手がどう思おうと相手の勝手。もちろん自分がどう思おうとそれも自分の勝手」と思えてしまえば楽な話なのです。
でも、私は彼らに「そうすればいいじゃん」とは言えません。 言いたくもありません。
私は「アタシだってできたんだから、アナタにだって出来るはず」とか、「俺は努力してきたんだ。だからお前も努力するべきだ」という人が大嫌いだからです。 大嫌いですが、その人対して「それを言うな」とは言いません。 それをしてしまうと更に大嫌いな「自分の考えを押し付ける人」になってしまうからです。
イカフライ様が「非モテなんて大嫌い」と思うのも自由ですし、「非モテは努力すべき」と言い続ける事も自由です。 お好きなだけ言えば良いのですが、私は「そんな事は無意味だと思う」という私の考えを言い続けます。 

最後に、私は沢山の人を傷付けてきましたが、傷付けられた事はありません。 お互い様なんて考えた事もなく、自己中心的で、愚かで意地悪ですが、友人もいますし、恋人が居た事もあります。 人間性とコミュニケーションは何の関係もない事の証明になりますでしょうか?

*1:女子の場合は「大人しい」という事が美徳とされる価値観もまだある為、笑顔で聴いているだけで交好感が持たれたりする事もありますが、男子に好感を持たれた場合、他の女子から反感を買ってしまうという事もあります。

*2:私(1970年生まれ)ですら、先生に敬語を使う奴はぶりっ子と言われたり、標準語を使うから気取っているだの言われたりした。「礼儀正しい事」は良い事ではなかったのである。大人に「子供らしくない」と言われた事もあるしね