私の不愉快はみんなの不愉快ではない

コメント欄ではリンクが反映されないのでついでに記事としてアップ。
書き足りない事もあったし。


私はこのCMが非常に差別的というか、ここに出ている男性を見下してあざ笑っているかのようで非常に不愉快なのだけれど、多くの人の目には一体どう写るのだろう?

私は自分自身の視点や価値観を重視しているので、自分が「価値がある」と思ったものが貶められても別に気にはならないし、逆に私にとってくだらないものが賞賛されてても気にはならない。疑問に思う事はあっても。
なぜなら、私は私と他者の価値観が一緒だなんて欠片も思っていないから。
自分自身の価値観を重視するけど、信用はしていない。つまり正当性を持っているとは思わない。

なので、「私は不愉快だ」→「不愉快に思っている人がいるはずだ」「皆が不愉快に思っているに違いない」みたいな発想は出来ないのである。

だから「これは不愉快なので無くしましょう」と呼びかけたりはしない。
前にも書いたが「数の理論」というか正当性みたいなものを持ち込みたくはないからである。


しかし、私がいくら不愉快だと喚き散らしたところでこのCMのような表現は規制の対象にもあがらないだろうな。
私にとっては、本当にセンスの悪い最低の表現物だけど。

今更ながらのミニスカート問題


はてこさん(id:kutabirehatekoさん)から、ミニスカート問題についてお答え頂けた事をとても嬉しく思っている。
お答え頂いた事もさる事ながら、その内容が私の考えとほぼ同じであったから。

ミニスカート問題が浮上した時、私もいろいろ考えたのだけれど、反応が怖くて言えなかったのである。なんてチキンな私。

私も「ミニスカをはいていた女性が何らかの被害にあった時に責任を取るのは彼女自身だ」と考えるから。それは「彼女が悪い」という意味ではない。「加害者の罪が軽減される」とも思わない。 言うまでもない事だが、犯罪は憎むべき事であり「ダメ、絶対」である。

ただ、私は優しい人間ではないので「だからそんな格好はおやめなさい」とは言わない。好きな格好をすればいいのである。他人からどう思われようとも。
「自分の魅力を最大限に見せる」という基準も「寒いか暖かいか」という基準も「上品か下品か」という基準も人それぞれだし、本人が「似合う」と思って着ているのなら、つまり自分の内面の自由においてそれを選択しているのなら、それは私が「しかし似合ってないな」とか「もうちょっとこの場にふさわしいファッションがあるんじゃないの?」とか「センス悪いな」と思ったとしても関係がないからである。 だから私はそれを口には出さない。余計なお世話以外のなものでもないから*1



「自由には責任が伴う*2」というのは至ってあたりまえの事だと私は考えているので「責任を取るのは彼女自身だ」と考えるのであるが、それは「そんな格好してたらどうなっても知らないよ」という非常に突き放した、冷たい態度である。

と、ここまで書いて来て思ったのだが、空想の世界の「女の子」にまで優しい視線を向けているはてこさんが、現実の女性にこんな冷たいスタンスを取るとは思い難いので、同意とは書いたもののもしかしたらまた私は読み間違いをしているかもしれない。はやり私は頭が悪い。

それはさておき繰り返し言うが、責任はもちろん本人にあるが、それで何か危害を加えられたとして、加害者の罪が軽減される訳ではない。そんなものに誘発されて理性のタガを外してしまう側の罪は大きい。当然の事である。


ファッションも表現のひとつであるが故、私は多少冷たいスタンスながらも、その自由を保証する。
あらゆる表現は批評される事を間逃れない訳で、ファッションももちろん批判の目にさらされる訳であるし、私も様々な感想を抱く訳だけれど、どんなファッションであったとしても批評はしても(とは言うものの私は基本的に口に出して批評はしない。人の趣味にケチをつけるのは下品だと思うから)否定はしない。全ての人が好印象を持つファッションなんて皆無だし、ましてや「私が不快に思うからやめろ」なんて言う権利はないから。
何をどう着てもその人の自由なのである。
出版物などに於ける表現もまた同じで、それをどう捉えるかは千差万別で、誰ひとり不快にさせない表現なんてない。あらゆる表現は批評される事を間逃れないし、私も批評はするけど否定はしない。



しかし同じ表現とは言え、出版物に於いけるそれとは違いがある。それはゾーニングが成されない事だ。部屋の中で独りでファッションショーをしているならともかく、街に出れば万人の目に触れる事になる。それを不愉快と感じる人の目にも。もちろんファッションにも「社会的なコンセンサス(例えば一般的な会社に面接に行く時の服装とか)」もあるし全裸で外を歩いたら犯罪なのである程度の規制はあるが。

そういう意味でも他者への配慮という問題は極めて複雑だとも思う。(はてこさんの言う配慮はどういう配慮を示しているのだろう? 機会があったら教えて頂きたい)

もうひとつ決定的な違いは「性的なファンタジー」に於いて、それはジェンダーセクシャリティの問題が深く関わると言う事である(実際にはファッションにもジェンダーセクシャリティが深く関わるがそれに関しては後日書くかもしれない)。

私はアセクシャルである事に対して、何の不都合もコンプレックスも感じてはいないし、現状に満足しているが、自ら望んでアセクシャルになった訳ではない。自己決定ではないのである。
性別を選んで産まれて来る事が不可能なように。 だから私はジェンダーセクシャリティに関して責任は求めない。
もちろん、そこに「善悪」もないと考える。




さて、私は先程「怖くて言えなかった」と書いたが、何が怖かったのかを正直に言うと、この発言(ミニスカートの責任について)が女性批判と捉えられる事が怖かったのである。まあ、それで攻撃されようが別にどうと言う事はなかったのだけれども、公の場で(こんなブログでも公の場だと思っている)女性を批判するのは世間的には「悪」だもの。私にも少しは良心が残っていたのかな?とも思ったが、何の事はない、見ず知らずの「ミニスカートをはきたい女の子」の権利を守る為に悪者になるのが怖いという単なる自己保身だった。ま、そんな事はどうでもいいけど。

*1:ところで、「彼女自身の内面の自由による選択」が他者に配慮されているか? という問いは非常に重要であるが無意味でもある。人間の感覚は千差万別なので、何処までが配慮された状態なのか?というのは一概には言えないからである。「配慮してますよ」と言えば「そうですか」と言うしかないと私は思っている

*2:これはあくまでも自分自身で選択し、決定した事柄においてという事であり、最近使われている「そう言う状況に追い込まれざるを得なかった場合」にも適用しようとする『自己責任論』ではない

なんと卑劣で愚かな私(はてこさんへの公開質問つき)


私はいわゆる「性的なファンタジー」というものを一切必要しない人間である。

だが、最近いろいろ言われている「表現規制問題」については個人的にいろいろ考えるところがあり、はてなを始めとするブログ界隈をうろついていた。
基本的には私は「規制反対」の立場であるが、賛成派反対派のどちらの意見も興味深く読んだ。
また、「性的なファンタジー」に対して様々な見方があることも知った。賛成、反対関係なく、共感できる意見もあれば、理解できる意見もあったし、共感出来なくても理解出来る意見もあったり感想は様々だったけれど。


先程も述べたように、私は規制に反対の立場を取っている。
何故か?というのはもう、あまりにも単純でお答えするのも恥ずかしいくらいなのだが、やはり「表現の自由、思想や内心の自由を規制してはいけない」と思っているからである。
私にとって「性的なファンタジー」は全く必要としないものであるし、その表現、または作品の多くは興味もなければ、何の価値もない。 それどころか、あまりのえげつなさに怒りを覚える事もある。(それは男性向けだけでなく、女性向けである少女漫画やBL、残虐な暴力が描かれているものも含めて)
それでも「表現の規制はすべきではない」と私は思っている。

そんな私にとって「内心の自由」に深く切り込んでいる(ように見える)はてこさん(id:kutabirehatekoさん)の記事はとても印象に残った。
私は頭が悪いので、理解できない所も多々あったし、そもそも読み間違えている可能性も高いのだけれど、ものすごい「罪悪感」を感じてしまったからである。(性的ファンタジーなど必要とした事すらないのに)

この罪悪感の正体は一体なんだろう?と私はずっと考えて来たのだけれど、
その答えに今回たどり着けた気がした。



アンドロイドの人権と神さまとセカンド・レイプを読んで。

そうだ。鍵は良心だったのだ。

よく言われる「胸に手をあてて考えてごらん」これである。

私はとても図太くて自己中心的な人間なのだけれどそれでも「胸に手をあてて考え」れば誰かを傷つけてしまった、という事に思い当たり、「罪深き私を罰して下さい」と跪きたくなってしまうのである。

もちろん、はてこさんは誰の事も「断罪」なんてしていない(のであろう)。文章の何処にも「お前が悪い」などと具体的な事は書いていないし。

でも、背後からじわじわと伝わって来るのである。
もちろん、そんな事を勝手に読み取る私が悪いのだ。はてこさんは悪くない。私の頭が悪いだけ。

私はこれまでにたくさんの人々を傷付けて来た。
無意識のうちに。そして意識的に。
私は「アセクシャルである」と自認する前に何人かの人と付き合った。大抵の場合は私が肉体関係を拒んだり、やる気のない態度で臨んだりする事で関係が悪くなった。 その時、不思議な事に殆どが私を責めるのではなく、自分自身を責めるのだった。 彼らは私の言葉や表情の背景にこんな事を読み取っていたのである。

「お前の汚い性欲で、私のこの身体を汚すのか?そんなお前は本当に私の事を愛していると言えるのか?胸に手をあてて考えてみろ」

そんな事を読み取ってしまった彼らは「自分自身の性欲」を呪うのである。
私が性的な欲求を他者に抱けないのが、仕方の無い事であるのと同じ様に、彼らが私に対して性的な欲求を抱いてしまうのは仕方の無い事であるのに。 「性欲なんてなくしてしまいたい」彼らはよく私に言った。時には涙を流して。

私は彼らを混乱させ、傷つけていたのである。深く。
そして周到な事に「私自身が加害者である」と彼らに知らせないようにして。 それどころが、清純にして純真な哀れな「被害者」のフリをして。
「そんなことは言ってないよ」という逃げ道も確保して。
なんと卑劣な私。


そんな記憶を掘り返される文章であった。 それは私が勝手に掘り起こしてしまったものだ。 かつての私の表情や、しぐさや、声のトーンの背景に言外の言葉を読み取って「勝手に」傷ついてしまった彼らのように。


はてこさんの記事には例として
強姦と殺人を思い描いて性的な興奮を得ることに悩む男性のこと
が書かれているけれど、言うまでもなく(というのは、はてこさん自身もお解りのようで、コメントなどでは他の表現の暴力性には触れられていますが、何故か主題にあがるのはいつも「男性が加害者」の例ですね)どんな表現でも、誰かを傷つける可能性を持っている。
「誰一人として、絶対に、傷つけない」そんな表現なんて存在しないのだ。


でもだからと言って、何かを表現する事を、表現されたものを求める事を、私は規制すべきではないと思っている*1



私の中の神は、死んでいる。
幼い頃「人間は生き物(植物も含む)を食べないと死んでしまうのだ」と教わった時に。
私の中に良心はない。
私が食べないといけない豚さんに食べさせてしまったから。


人は誰かを傷つけずには、何かを犠牲にしなくては生きていけない。 それに対して意識的であろうとする事は間違いではないし、そうあるべきだ。 私はそう自分に言い聞かせている。自分自身だけに。

強制はしない。するつもりもない。



追記 

はてこさんにしつもんです。
もちろんお答えいただかなくてもだいじょうぶです。

女性がファッションの自己表現として(いわゆる内面の自由として)ミニスカートをはくことをどう思われますか?
彼女の内面の自由は保証されますか?
また、その結果に責任がもてますか?


コメントを読んでさらに追記

「良心」とか「無意識」に訴えかける手法は最強ですね。
議論はその手法の前では手も足も出ない。
まあ、私は卑怯なので反則技をよく繰り出しますが。
女の特権的なね。弱者とみなされているのって、結構いろいろ使えますね。

*1:ただ、レイティングだけでなく、住み分けも必要だと思うし、「これはバナナであって性器ではありません」みたいな言い訳は本当に「愚か」だと思う。書くなとは思わないけど

そこに正当性はない

私には「嫌いなもの」が多い。 「好きなもの」も多いけど。
私の好き嫌いの基準は、とても感覚的で独善的なものなので、他者から見れば、何の整合性も脈絡もなく矛盾だらけのもので、リストアップしたとすれば、まさに「私の社会性の無さの証」のようなものにしかならないであろう。
ただ、私は「ただなんとなく嫌いだから嫌い」という状態を、「非常に居心地が悪い」と感じてしまう質なので、自分が納得するような理由付けをしてみたりする*1。  だが、理由付けをしてみた所で、それは結局「何かを嫌う事の後ろめたさ」から目を背ける自己満足でしかないと思う、私にとっては。
私が何かを嫌う時、そこに正当性は何一つないのである*2
「正当性はない」と思っているので「○○なもの(人)は、多くの人に嫌われて当然だ」という見方を私はとらない。 「好き嫌い」といった感覚的な判断に、そういった「数の論理」みたいなものを持ち込むのは、私にとっては「ただなんとなく嫌いだから嫌い」と思ってる状態より、居心地の悪いものだから。
というか「そんなものは嫌われて当然」と言った物言いを耳にする度に思うのだけれど、どうして「好き嫌い」の判断にそういった「数の論理」というか正当性のようなものを持ち込めるのだろう? 素朴に疑問に思う*3。 「好き嫌い」なんて個人の感覚なのだから「皆が好きだって言うから好き」も「皆が嫌いだって言うから嫌い」もアリと言えばアリだが、この「そんなものは嫌われて当然」というのは、なんだか圧力めいたものを感じてしまう、個人的に。
私が何かを嫌う時、そこに正当性はない。 私はそれで良いと思ってる。

*1:「自分が何故それを嫌うのか?」という事を考える作業は、その傾向から自分の価値観や性格が浮き彫りにされるようで結構楽しい。

*2:「好きなもの」でも同じ事であるが

*3:嫌味ではなく本当に

ブクマコメに勝手にお返事

ちょっと気になるコメントがあったので、お返事させて頂きます。

tororo-imo はてな, 謎 このエントリに共感するくらいなら、言及元のイカフライ氏のエントリにコメントなりブクマすればいいのにそれをしないはてな村民。/自分に火の粉が降り掛かるのが嫌だからスケープゴートに利用したのか?
tororo-imo様 何が謎なのか、よく解りません。別にイカフライ様のコメント欄で行っても問題はないでしょうが、別にこちらで言及されても何の問題もないと思われますが? 個人的には、イカフライ様の所は背景の関係で目がチカチカするので、こちらのコメント欄、もしくはブクマで言及して頂けると良いな、と思ってはおりますが。
ところで、火の粉とは何でしょう? スケープゴートとは誰の事でしょうか? イカフライ様の事でしょうか? もしかして私? 


fuji_hajime コミュニケーション ソースをパンですくって綺麗にさらうのはシェフに対するrespectの証。ってそーいう話じゃないですか、そうですか、ごめんなさい。
fuji_hajime様 まさにそういうお話です。それをした時も、知人から「それはおかしい」というダメ出しがありました。そのエピソードの方を書こうかとも思ったのですが、長くなるので「美味しく頂きました」の方を使う事にしました。 どちらのケースも厨房の方に喜んで頂ける事が多い(席まで来て下さる方もいらっしゃいましたが)のですが、お作法って難しいですね。

無邪気な人の、悪意なき感情。

先日「情熱大陸」を久し振りに観た。 さかな君が取り上げられていた回である。
そこに映し出されたさかな君の姿を、私はとても魅力的だと思った。
目上の人には礼儀正しく、子供達には優しく接し、熱く魚の事を語る彼を、とても素敵な人だと思った。 
後日、電車の中で若い女の子が「さかな君ってキモい」と話していた。 私は(そう思う人もいるんだな)と思った。
価値観は人それぞれなので、彼女達がさかな君を「キモい」と思うのは、自由である。 同じ様に電車の中で大声で話す彼女達の事を私が「お前のひじきみたいな睫毛のほうがキモいよ」と思うのも自由である。

私は、彼女達が何故さかな君をキモいと思うのか考えてみた。 顔? 声? テンションの高い喋り方? ファッション? さかなに詳しい事? 何をもって彼女達はさかな君を「キモい」と断罪するのだろう? 
考えてみたけれど、結局は解らなかったがある事を思い出した。

昔、会社で新入社員のA君が私に言った。
「Parisさん、Bってキモくないすか?」 BというのはA君の同期の男性社員である。 A君とB君は新入社員研修を終え、試用期間のような形で私が所属している部署に入って来たのだった。 
「どうしてそう思うの?」と私は尋ねた。 彼は言った「だってキモいから」
あまりの答えに最初はギャグかと思った。 でもちょっと考えてから思った。 理由なんてないのである。 A君にとって、B君は「キモいからキモい」のだ*1
「キモいからキモい」と彼はなんの迷いもなく口に出してしまうのだ。 そこには悪意すらない。 ただの無邪気な感情があるだけだ。

私から見たB君は、大人しくやや消極的な所はあったけれど「真面目で仕事がしっかり出来る人」という印象だった。 お昼休みに1人で仕事の関係の本を読んでいる姿も見かけた。 でも、一部の女子社員の間で「キモい」と言われている事も知っていた。  
一方A君は、上司の受けも、女子社員の受けも良かった。 A君に直接仕事を教えていた私も、「ちょっと雑な所があるかな?」とは思っていたものの、特に悪い印象は抱いてなかった。 その時までは。
自分が感じた「違和感」にしろ「不快感」にしろ、それを深く考える事なく「キモい」で済ませてしまう人、そしてそれを口に出す人を、私は軽蔑する。

ある日、上司が私にそれとなくA君の評価を聞いてきた。 私は、A君の仕事がちょっと雑である事、物事を一面的に見て感情で判断しがちな所があるのでは?と言うような事を伝えた。 それから直接携わってはないものの、B君は仕事もしっかり取り組み、いろいろ勉強しているようだ、と付け加えた。上司は「そうか。まあ、頑張ってしっかり教えてあげてよ」*2と言うと他の女子社員の方へ行ってしまった。
それから時が過ぎて、A君は良い部署に移って行った。 B君は私達と同じ部署に残ったままだった。
私は会社を辞めた。
別にその事が原因で辞めた訳でもないし、転職するにも不況でろくな所はなかったけれど、あの会社を辞めた事を後悔してはいない。
ただ、A君が雑に仕上げた仕事を直すのを手伝ってくれたB君に、何も出来なかった自分の無力さを呪った。
力が無いという事は、自分ばかりでなく、他の誰かを助ける事もできない事なのだと、私はその時初めて知った。

*1:まあ、何らかの理由はあったのかもしれないけれど、彼にはそれを言語化する能力がなかったのだろう。

*2:A君の「だってキモいから」という答えと、上司のこのなんとも投げやりな返事は、随分前の事なのに、何故か鮮明に残っている。

そんな嫌な奴になるくらいなら、孤独死したほうが幸せです。

こちらの記事で言及して頂いたので、お答え致します。
「それは思いやりではなく自意識過剰ではないでしょうか?」
http://blog.goo.ne.jp/ikafurai007/e/5da7b0f13be6d31b7ffa4c847fea5568

仰る通り、前回の記事で書いた「予期的優しさ」による行動は、思いやりではないと私も思っています。 
で、前回のエントリは、コレが「優しさ」であるとか「努力」であるという話ではなく、それは外部から判断できないというお話でした。

ご理解頂けなかったのは、私の文章力の無さ故なので、もう一度説明致しますが、私はコミュニケーションは努力でなんとかなるものだとは考えておりません。 人間性も関係ないと思っています。 それ故、「努力しろ」というのは無意味であるだけではなく、更に人を追い込んでしまう可能性があるという話をしているのです。

イカフライ様はこのように仰っている訳ですが、

『形式だけでも学ぶ』
と、私自身書いているように、カンジの良いふるまい、感じよいまでいかなくても反感や不快を感じさせないふるまいを心がけましょう。つう話なんですけどね。
例えば、コンビニで買い物をして釣銭を渡された時、笑顔でてきぱき渡されるのと、むすっとした表情で投げるように渡されるのと、どっちが良い?レベルの話です。

世の中には、「コンビニでジュース買ったくらいで丁寧に対応されるのはウザい」と感じる人も、「お客に『ありがとう』と言われるのが大嫌い」という人も(ごく少数かもしれませんが)存在します。
「店員に『ありがとう』という人が大嫌い おかしいでしょうか?」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114818296
ちなみに私は店員さんに「ありがとう」という派です。 レストランで食器を下げてくれるウエイトレスさんにも「ありがとう、美味しく頂きました」と言ってしまうのですが、ある時、友人の友人に「年寄りみたいで変」と言われた事があります。
この「反感や不快を感じさせない」という振る舞い自体が、「こうすれば良い」という一つの答えでは表せない程、今のコミュニケーションは複雑化しているのです。

誰かと話をしていて、内容はなんでも良いのですが、まあ、週末にどこに行った、なんて話題だとします。
その時に、こちらの話を上手く引き出しつつ発展させる人は話していて楽しいし、いい気持ちになります。
一方、自分の話しかしなかったり、何を言ってもむっつり黙り込んでしまう人は、話していても、なんだかなあ、と気持ちが盛り下がって、あまり話したくなくなります。
そこで、自分が興味の無い話題、知らない話題で上手くコメントできなければ、せめて笑顔で聞くか、それとも、話の腰を折ったり、むっつりした顔をするか、それによっても、受ける側の気持ちは違います。

これもケースバイケースでしょう。
常に自分の話しかしない人でも、そのグループのリーダー的存在であれば、周りは常にニコニコ話しを聴いている、というのは良く見かける光景ですし(いろんな会社に派遣として行ったので、こうしたOLさん達のお付き合いはよく目にしました)むっつり黙り込んでいる人でも「クールでかっこいい」と言われる人もいます(私の友人ですが、彼はイケメンではありませんが、結構モテています)。 
また、男子学生の場合は、笑顔で話を聴いているだけでは「面白くない奴」という致命的なレッテルをはられてしまうようなケースだってあるでしょう*1
 と言う訳で、笑顔で人当たりがよければOKという時代ではないのです。 非モテを自称する方々は、私やイカフライ様よりかなり若い方々なのだという事をもっと意識した方が良いのではないか? と思います*2

もう一度言います。
コミュニケーションは、努力でなんとかなるものでも「こうすれば良い」というマニュアルでなんとかなるようなものではないと、私は思っています。 だから「努力しろ」とか「こうすれば良いよ」なんていうアドバイスには意味がないと私は思っています。 
イカフライ様もこう仰ってますね。

>もちろんただ単に気が利かないという場合もないわけではないが、問題は、そういう「気が利かないだけの人」と『予期的優しさ』の結果「気が利かないだけに見えてしまう人」の見分けが外部から簡単には付けられないという事にある。

と言いますが、そんな事は相手から見て、どうでも良いことなんです。
これはParis713さんも解っていることでしょうが、無愛想な人が、単に気が利かないだけであっても、それとも、その「予備的優しさ」とやらの結果であっても、無愛想にされた人間には、結果は同じです。

そうなんです。 どうでも良い事なんです。 仰る通り、結果は同じです。 そしてそれは「常に結果でしか判断されない」と言う事を意味しています。 つまり「どう行動しようと(あるいはしなくても)相手の受け取り方次第でどのようにも捉えられる。」という事でしかありません。 重要なのは過程ではなく結果のみという訳なので、努力やマニュアルでなんとかなるものではないのです。
非コミュ非モテを自称する側はそれを踏まえて「相手がどう思うか?」という事を必要以上に気にしてしまうのですが、それを自意識過剰、または過剰な自己防衛と仰りたいのでしょう。 確かにそうだとは思います。 彼らは考え過ぎなのです。 私の様に考えなしに「相手がどう思おうと相手の勝手。もちろん自分がどう思おうとそれも自分の勝手」と思えてしまえば楽な話なのです。
でも、私は彼らに「そうすればいいじゃん」とは言えません。 言いたくもありません。
私は「アタシだってできたんだから、アナタにだって出来るはず」とか、「俺は努力してきたんだ。だからお前も努力するべきだ」という人が大嫌いだからです。 大嫌いですが、その人対して「それを言うな」とは言いません。 それをしてしまうと更に大嫌いな「自分の考えを押し付ける人」になってしまうからです。
イカフライ様が「非モテなんて大嫌い」と思うのも自由ですし、「非モテは努力すべき」と言い続ける事も自由です。 お好きなだけ言えば良いのですが、私は「そんな事は無意味だと思う」という私の考えを言い続けます。 

最後に、私は沢山の人を傷付けてきましたが、傷付けられた事はありません。 お互い様なんて考えた事もなく、自己中心的で、愚かで意地悪ですが、友人もいますし、恋人が居た事もあります。 人間性とコミュニケーションは何の関係もない事の証明になりますでしょうか?

*1:女子の場合は「大人しい」という事が美徳とされる価値観もまだある為、笑顔で聴いているだけで交好感が持たれたりする事もありますが、男子に好感を持たれた場合、他の女子から反感を買ってしまうという事もあります。

*2:私(1970年生まれ)ですら、先生に敬語を使う奴はぶりっ子と言われたり、標準語を使うから気取っているだの言われたりした。「礼儀正しい事」は良い事ではなかったのである。大人に「子供らしくない」と言われた事もあるしね